骨をだに わがみとあれば 苦しきと 捨つる山辺を 夢路にまよふ
*これは大火の歌ですね。彼の歌は、口語で自在に歌うほうがキレがいいのだが、文語を使って詠むことも得意です。
だが、若干臭くなることは否めない。そこはそれ、それも魅力ですね。本当はもっときついことができるのに、行儀よくしているのが、少々胡散臭い。何か怪しいとさえ感じる。これも彼ならではのことです。実におもしろい。
「だに」は、「せめて~だけでも」とか「~さえ」とかいう風に訳す副助詞です。体言や活用語の連体形、助詞などにつきます。この場合は助詞についた例ですね。辞書をくればこんなことはわかることですが、いちいち抑えるのがわたしなのです。こういうことが、勉強というものだからです。
かのじょは教師というより文学者ですから、これくらいのことはわかっていて当たり前だと思う風がありましたね。だから難しい言葉を使った歌なども、ほとんど解説をつけずそのまま発表していました。それはそれなりに美しいですが、やはり何も意味がわからなかった人の方が多かったでしょう。ここではそういうことはやりません。小さな副助詞一つにもこだわって解説をつけていきます。
骨でさえも、それが自分のものであれば、苦しくてたまらず、それを捨てられる山辺を、夢の中でさまよう。
なかなかに痛い表現だ。彼のような人がこんな気の利いた歌を歌ってくれれば、確かに少々気持ちが悪い。
自分が嫌な人は、とにかく何もかもが嫌ですから、自分など全部否定してしまいたくなる。記憶の底の影に隠れている、自分の姿がたまらなく醜いからです。ごまかしてもごまかしても匂い立ってくる、自分の匂いがたまらなくいやだからです。
だから他人の顔をかぶり、他人の真似をして、全然違う存在になろうとする。自分の全部を変えてしまおうとするのです。そうすれば、自分から逃げられると思い込んでいるかのようだ。
だが、本当は、自分から逃げることなどできはしないのだということに気付いている。だがそれでも捨てたいという思いに、人は迷い続けるのだ。
その矛盾の苦しみを歌いあげたものでしょう。
苦しいですね。
でもこういう歌は、少々あなたには似合いませんね、などともらすと、彼は早速歌ってくれるのです。
結局は 捨てたい俺に 捨てられて どこにもいない 俺を生きてる