戦闘を初めとする暴力シーンが苦手なので、そうした類の近作としては、「レッドクリフ1・2」と「ワールド・オブ・ライズ」くらいしか観ていない 。
この3作だけでも、過剰なまでの暴力表現に、思わず目を背けてしまった。
暴力映像は攻撃性を増大させるといわれている。統計によれば、女性のほぼ60%はパートナーによるDV体験があり、約5%が命に関わる程の激しい被害を受けているという。
こうした映像が、DVや子どもへの虐待、暴力的な犯罪などの急増の一因となっている可能性は高い。
それなのに、暴力映像はエスカレートの一途を辿っている。その背景には、女性や子どもへの支配を目的とする「暴力」を許す、「家父長制社会=男性中心社会」の存在がある。
こうした男性を優位におくジェンダー意識は、男性同士の絆から生まれたものだ。
主な活動の場を、男性は公的領域に、女性は私的領域にと振り分け、領域の侵犯に際しては、男性たちの連帯による「象徴的な暴力=抑圧・搾取・排除」が振るわれる。
典型的な「男社会」であるハリウッドの映画産業では、女性監督が非常に少ないため、男性の視点による作品が多くなる。
そのため、「暴力」を許容するだけでなく、肯定し、礼賛さえしているのである。
その一方で、「イースタン・プロミス」では、サウナで繰り広げられるヴィゴ・モーテンセンのリアルな格闘シーンに痺れる私がいる。
本作全体では暴力描写は少ないが、ロシアン・マフィアがナイフを駆使して、残忍さをむきだしにする”痛い ” シーンのそれぞれに必然性があり、クローネンバーグ監督独特の美学として捉えることができた。
何故人はこのように、暴力映像を観たいと思うのだろうか?
先史時代、人類は動物を食べたが、動物のパワーは憧憬の対象でもあった。ラスコーの壁画のように、絵画の形で神聖化することも多々あったのである。
動物への暴力(自然への侵犯)は、「トーテム饗宴(動物の生け贄を神に捧げ、神と共食する儀式)」を催すことで、供養と自身のパワーアップを果す。
彼らが踊り狂い、脱自(死んだような)状態となるのは、殺した動物に死すべき運命にある自分を投影させたからだろう、といわれている。
後代の人間を生け贄にする「トーテム饗宴」も同じである。すべての女性と権力を所有する専制的な父を殺して食べるという行為は、彼の潜在力とともに、彼を所望する産みの母の潜在力を我がものにすることでもあった。
幼児が一人前になるには、産みの母との至福の関係を絶たねばならない。それにはエディプス王の神話のように、まず、母の所望する父を殺し、次いで母を死に至らしめることが必要になる。
人はこのように、暴力を用いて他者を我がものにする(自己と同化させる)ことで初めて、自らを表象することができるのだ。
これを「根源的暴力」といい、人間にとって必然の宿命である。
どこの国でも、祝祭では供犠が行われ、殺人さえ許容されている。
これは、今ではタブーにされてしまった殺人と近親相姦を再生産し、表象(上演)することによって、原初に立ち返ることを経験するためである。
一種の祝祭空間でもある映画で、暴力シーンが肯定されるのはそういった理由によるのだろう。
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