マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

水になった村/コオロギのように 

2007-11-12 | 映画短評
今年度の邦画マイベスト=ナンバー1。

水になった村

 観ている間中、幸せいっぱいで、心が温かくなった。

 自然と共に生きる、たくましい村人たち。
 先祖の知恵を現代に継承し、最大限に活かす歓び。
 生死に執着しない生き方。
 人間も生き物の仲間なんだとしみじみ感じさせてくれる。

 田植えなど共同作業が必要なため、助け合いの精神が根付き、一人暮らしになっても、他人のために食べ物を沢山作る習慣がある。監督は大食いの老女の気丈さと優しさに驚く。そして、訪れる度に、山の恵みを満喫する。

 「塩さえあれば、家族に腹いっぱい食べさせられる」と語る女性。
 「電気もガスも無い。時計さえ不要」と、掘立小屋で幸せそうに暮らす老夫婦。
「不便でも、ふるさとは行きたいところへ自由に行ける」と言い放つ。
 「薬も自家製」と、万能薬であるキハダを採りに山へ入る一家。
自給自足の原点である。こうした生活は、他人に依存しないから自信に繋がる。
 食糧自給率の低いわが国の模範となるべき生活である。

 さらに、「水・光・風の神が見守ってくれる。こんなに幸せでいいのかしら」と、感謝の気持ちを忘れない心豊かな生き方を教えてくれる。

 しかし、現代文明は、大自然に感謝しながら暮らすことの大切さを、ザックリと切り取り、ダムの中へ投げ込んでしまった。

 築100年以上の家を取り壊す日。
 「今までに聴いたことが無いような音がする。情けない。可愛い」と泣きながら合掌する人々。さらに、水没することが分っていても、来年のためにワサビを丁寧に植え直す姿には、涙がこぼれた。

 多大な犠牲を払ったうえに、水余りの今日、ムダ遣いの代表のように言われ、彼等は二重の悲しみを背負うことになる。

 徳山団地に移住しても、心はふるさとにある。
「ここは仮の宿。旅館にいるような感じ。交流も無いので淋しい」
「村では金を遣うことが少なかったが、ここは何でも金々々。幾ら補償金をもらっても、私たちには守るべき財産は何も無い。先祖から預かった大切な遺産を一代で食いつぶすようなもの。歴史の消失とはこういうことなのか」
 と嘆く。

 ふるさとの記憶の中だけで生きる人も多いという。物忘れがひどくなっても、ふるさとの思い出だけは確かなのだ。
 認知症で無欲になった老人が、自分の結婚指輪を外し、監督に「あげる」と言ってきかない様子は、素朴な村人たちの心を象徴している。

 冒頭とラスト。ダム底に水が徐々に浸み込み、コオロギが逃げ惑う。その姿は村民とダブり、次第に私たち自身に重なってくる。

 観た後、こんなに心が痛くなった映画は、滅多にない。
★★★★★(★5つで満点) 



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