女性の身体(妊婦)に焦点を当てて、伝統的な価値観を見直そうという大胆な試みが興味深い。個性派女優・唯野未歩子の原作・脚本・監督(初)作品。女性スタッフを数多く採用し、女性監督ならではの斬新な視点がきらめく秀作だ。
三年身籠る
冒頭、霧の中で道路を掃く箒の音だけが聞こえる。次第に霧が晴れて、主人公である9か月の妊婦・冬子が 後ずさりしながら掃除する姿が映し出される。
掃いても掃いても、振り返る度にゴミが一つ、またひとつ・・・。
ついに(妄想が膨らみ)、山の中まで掃き続けて海辺に至るが、集めたゴミは一陣の風によって散らばってしまう。1本道のゴミは、決して1カ所にまとめることはできないのだ。
これは、西洋形而上学の価値観である”唯一の究極点に真実をおく見方(言葉・理性・思考中心主義)”への批判である。
箒を持つ女性は魔女。西洋の価値観を突き崩すには、魔女による”秩序の解体~混乱~再配置”の戦略が必要”という本作のテーマを表している。
冬子は女系家族で、父は不在だ。夫の徹は浮気をしており、冬子とは考え方も行動もすれ違いばかりで、彼女にとっては存在しないのと同じ。
「夫と私とは終わるかもしれないけれど、この子とは終わりがない」と冬子は言い、子どもが生まれたら一人で育てる覚悟をしている。
彼女は胎児を純粋培養するために、TVやノイズなど外部からの情報を耳栓でカットしている。
さらに、胎児の様子を毎日、不在の父宛の手紙にしたため、空き缶に入れて流しの下に隠している。他者を排除し、父を欲望している冬子・・・。
妹の緑子も、年長の恋人である産婦人科医の海に、父的な同一化を求め、「自分が一番好きだから、母親にはならない」と宣言。
そう、この姉妹は、”母子未分化”の状態なのだ。
”エディプス・コンプレックス(女の子が母との蜜月を続けるために、母の欲する父へと向かう欲望)”を解決するには、この父への欲望を、子どもを欲する願望へと置き換えなければならないのに・・・。
母の桃子も祖母の秋も、「父親なんて重要ではない」と冬子に言う。
妊娠18ヵ月にもなる常軌を逸した事態に対しても、「赤ちゃんと一心同体だから、世話をしなくてもいいし、楽でいいわね」と言い、ノーテンキなもの。そのうえ生まれてくるのは絶対に女の子だと決めている。
母と祖母の違いは、母は冬子に「過去の手紙や写真を捨てなさい」と教え、祖母は「都合の悪いものは流しの下に隠しなさい」と言う点だ。
過去の痕跡(西洋形而上学が隠蔽してきた、認知されない母)を消す=”母の殺害”をする父的な存在の桃子と、痕跡を保存する祖母。冬子は祖母の教えを継承している。
祖母と冬子の共通点はもう1つある。2人とも茶筒など缶のふたを開けることができず、いつも徹に頼む。女性が男性に境界を切り開く契機を与え、既存の構造を組み替えることを望んでいるのだ。
徹は2人の缶を開け、さらに、流しの下の空き缶も偶然に見つける。
そして、不在の父宛の手紙を発見し、冬子の苦悩を理解するが、同時に元カレの写真も見てしまう。
「自分の浮気のせいで、子どもがなかなか生まれないのかも?」と悩んでいたところへ、「自分の子ではないのかも?」との疑惑が生じ、二重のパニックに陥る。
この相反する緊張が重要である。
徹のアンビヴァレンスな状況と、偶然かつ境界的(あれか、これか)な体験は、 冬子との醒めた関係をこじ開ける。徹の不安は、冬子のファンタジーになるのだ。
内から外へ、外から内へと攪乱の呼びかけが始まり、切り崩し、反転へ・・・。
冬子が元カレに胎児の父かどうかを確かめに行こうとしたとき、初めてお腹の中から赤ちゃんの声が聞こえる。外界の気配に感応して、内から外への呼びかけが始まったのだ。
海は、冬子に「男は誰でも、自分の子だという確信が持てないもの」と教え、彼女は夫の不安な状況を理解する。
「3年間も身籠るのは、自分が望んだことかも?」と、不在の父宛の手紙を、夫に見てもらうために書くようになる。父への欲望を、子どもを欲する願望へと置き換えるようになったのだ。
祖母が亡くなり、「胎児は祖母の生まれ変わりかも?」と母が言う。
徹は「祖母が怖くて嫌いだった」と言って泣くが、呼応するかのように胎児の声が聞こえ、父親としての自覚が始まる。
ここでも、缶のこじ開けを欲した祖母の思いが通じたのだ。
徹のパニックが契機となって、それまでの夫婦の関係は反転する。
緑子は海に一体化を求めるが、彼の持つ男性論理(標準・常識・比較・名誉・過去と未来などの重視)や、女性的な共感を得られないことにいらだっている。
徹と浮気をしても、ちょっとスポーツをするといった軽い感覚で、母子未分化の幼児性を抱えたまま、男性(父)を求めている。
冬子は、緑子の軽さをなじり、同一化志向に亀裂を入れて覚醒させる。
そして、不在の父に独立宣言し、家族の新たな関係性を構築していく・・・。
数多くの 彩り鮮やかな料理が登場するが、これは女性性と欲望の隠喩だ。
欲望は欠如から生じる。”女系家族”の母子未分化状態(自立の欠如)からの脱却を”欲望”する、という解釈ができる。
”書き言葉”である手紙も多用されている。固有の本質や同一性を持つ一過性の”話し言葉”と違って、”書き言葉”は後で書き(置き)換え可能な言葉=本質や同一性を持たない、という性質を持つ。不在の父宛ての手紙は、胎児の父宛に書き(置き)換えられる。
唯野未歩子は、ただものではない。
ユニークな発想と、フェミニズムの理論をしっかり抑えた、予測不能の物語に拍手!
そして、新しい才能の誕生に心から乾杯!!
(★5つで満点)
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三年身籠る
冒頭、霧の中で道路を掃く箒の音だけが聞こえる。次第に霧が晴れて、主人公である9か月の妊婦・冬子が 後ずさりしながら掃除する姿が映し出される。
掃いても掃いても、振り返る度にゴミが一つ、またひとつ・・・。
ついに(妄想が膨らみ)、山の中まで掃き続けて海辺に至るが、集めたゴミは一陣の風によって散らばってしまう。1本道のゴミは、決して1カ所にまとめることはできないのだ。
これは、西洋形而上学の価値観である”唯一の究極点に真実をおく見方(言葉・理性・思考中心主義)”への批判である。
箒を持つ女性は魔女。西洋の価値観を突き崩すには、魔女による”秩序の解体~混乱~再配置”の戦略が必要”という本作のテーマを表している。
冬子は女系家族で、父は不在だ。夫の徹は浮気をしており、冬子とは考え方も行動もすれ違いばかりで、彼女にとっては存在しないのと同じ。
「夫と私とは終わるかもしれないけれど、この子とは終わりがない」と冬子は言い、子どもが生まれたら一人で育てる覚悟をしている。
彼女は胎児を純粋培養するために、TVやノイズなど外部からの情報を耳栓でカットしている。
さらに、胎児の様子を毎日、不在の父宛の手紙にしたため、空き缶に入れて流しの下に隠している。他者を排除し、父を欲望している冬子・・・。
妹の緑子も、年長の恋人である産婦人科医の海に、父的な同一化を求め、「自分が一番好きだから、母親にはならない」と宣言。
そう、この姉妹は、”母子未分化”の状態なのだ。
”エディプス・コンプレックス(女の子が母との蜜月を続けるために、母の欲する父へと向かう欲望)”を解決するには、この父への欲望を、子どもを欲する願望へと置き換えなければならないのに・・・。
母の桃子も祖母の秋も、「父親なんて重要ではない」と冬子に言う。
妊娠18ヵ月にもなる常軌を逸した事態に対しても、「赤ちゃんと一心同体だから、世話をしなくてもいいし、楽でいいわね」と言い、ノーテンキなもの。そのうえ生まれてくるのは絶対に女の子だと決めている。
母と祖母の違いは、母は冬子に「過去の手紙や写真を捨てなさい」と教え、祖母は「都合の悪いものは流しの下に隠しなさい」と言う点だ。
過去の痕跡(西洋形而上学が隠蔽してきた、認知されない母)を消す=”母の殺害”をする父的な存在の桃子と、痕跡を保存する祖母。冬子は祖母の教えを継承している。
祖母と冬子の共通点はもう1つある。2人とも茶筒など缶のふたを開けることができず、いつも徹に頼む。女性が男性に境界を切り開く契機を与え、既存の構造を組み替えることを望んでいるのだ。
徹は2人の缶を開け、さらに、流しの下の空き缶も偶然に見つける。
そして、不在の父宛の手紙を発見し、冬子の苦悩を理解するが、同時に元カレの写真も見てしまう。
「自分の浮気のせいで、子どもがなかなか生まれないのかも?」と悩んでいたところへ、「自分の子ではないのかも?」との疑惑が生じ、二重のパニックに陥る。
この相反する緊張が重要である。
徹のアンビヴァレンスな状況と、偶然かつ境界的(あれか、これか)な体験は、 冬子との醒めた関係をこじ開ける。徹の不安は、冬子のファンタジーになるのだ。
内から外へ、外から内へと攪乱の呼びかけが始まり、切り崩し、反転へ・・・。
冬子が元カレに胎児の父かどうかを確かめに行こうとしたとき、初めてお腹の中から赤ちゃんの声が聞こえる。外界の気配に感応して、内から外への呼びかけが始まったのだ。
海は、冬子に「男は誰でも、自分の子だという確信が持てないもの」と教え、彼女は夫の不安な状況を理解する。
「3年間も身籠るのは、自分が望んだことかも?」と、不在の父宛の手紙を、夫に見てもらうために書くようになる。父への欲望を、子どもを欲する願望へと置き換えるようになったのだ。
祖母が亡くなり、「胎児は祖母の生まれ変わりかも?」と母が言う。
徹は「祖母が怖くて嫌いだった」と言って泣くが、呼応するかのように胎児の声が聞こえ、父親としての自覚が始まる。
ここでも、缶のこじ開けを欲した祖母の思いが通じたのだ。
徹のパニックが契機となって、それまでの夫婦の関係は反転する。
緑子は海に一体化を求めるが、彼の持つ男性論理(標準・常識・比較・名誉・過去と未来などの重視)や、女性的な共感を得られないことにいらだっている。
徹と浮気をしても、ちょっとスポーツをするといった軽い感覚で、母子未分化の幼児性を抱えたまま、男性(父)を求めている。
冬子は、緑子の軽さをなじり、同一化志向に亀裂を入れて覚醒させる。
そして、不在の父に独立宣言し、家族の新たな関係性を構築していく・・・。
数多くの 彩り鮮やかな料理が登場するが、これは女性性と欲望の隠喩だ。
欲望は欠如から生じる。”女系家族”の母子未分化状態(自立の欠如)からの脱却を”欲望”する、という解釈ができる。
”書き言葉”である手紙も多用されている。固有の本質や同一性を持つ一過性の”話し言葉”と違って、”書き言葉”は後で書き(置き)換え可能な言葉=本質や同一性を持たない、という性質を持つ。不在の父宛ての手紙は、胎児の父宛に書き(置き)換えられる。
唯野未歩子は、ただものではない。
ユニークな発想と、フェミニズムの理論をしっかり抑えた、予測不能の物語に拍手!
そして、新しい才能の誕生に心から乾杯!!
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なかなか深い分析ですね。僕はフェミニズム的要素はあるとは思ったけれども、母子未分化というところまでは考えませんでした。
でも、この映画は別に難しい論文というわけではなく、そういうのをギャグとして見せているのが凄いですね。
たとえば赤ちゃんが祖母の生まれ変わりだという話のところで妹がそれじゃ、今までお姉さんのおなかの中にいたのはなんなんだ、おかしいじゃないかと言うと、あんたは細かいことを気にし過ぎなんだって言われるとか(笑)。
あと「あなたには過去と未来しかないの?」というのもかなりすごい台詞なんだけど、そういうのもギャグとして見せているし。
つまり、下手をすれば観念的なかたい映画になってしまいそうなのに笑えるものになっていると思います。
女性の監督と多くの女性スタッフ、それに出演する俳優も殆ど女性、妊娠・出産という女性特有のテーマを扱っているにもかかわらず、なにか違和感を感じずにいられないのは何故でしょうか。彼女たちが女系家族(で、私が女系家族ではない)だから?男性論理をもつ海くんの存在にほっとするのは何故だろうか?本当はもっと共感できる作品だと思うのだけれど、なんだかわからない違和感が拭えないまま、未だにどうもすっきりしない感じです。誰かこのコリコリ(違和感を表してみた)を解消してくれないだろうか。
なるほど~。
ここからして、観方を間違っていたような…。
もうひとつしっくりこないものがあったけど、マダムクニコさんのレビューを読んだら、深いところがわかりました。
TBがうまくいかなくて。
そのうちします~。
とてもおだやかだけれど、強い意思を感じる作品でしたね。
女性監督にこれからも期待しています☆
多くの映画ファンは、ここまでの観方で構えず、肩に力を入れず、ただただ、映画を楽しんでもらいたい。雑誌「ロードショー」の感想で十分であると思う。
私の評はどうしても作る側からの視点に偏る傾向にあるが、これこそがプロであり、真の映画評である。
外から、内から、心の目から観ている。それを確かな文章力によって、読むものをひきつける。だから、少々、長い評論でも、読み終えるに苦はない。分析、評論する上での豊富な知識も逞しい。
私は「三年身篭る」という作品よりも、この分析、評論の方が面白く、楽しめた。
ストーリーを書きたくない姿勢、知識のない人でも30秒以内に読める・・・そんな私の愚な姿勢もあり、自分の幼稚さも認識した。
このホームページの著者こそが、映画評論の真贋であると思う。
マダム・クニコさんの映画評に後押しされた気がして嬉しかったです。
>唯野未歩子は、ただものではない。
私も「偏らないフェミニズム」、好きです。
とても、明晰な分析ですね。疑問におもっていたことが、すっきり解読できました。
唯野未歩子が、日本社会で今後どのように評価されていくのか、彼女がどう表現を進化させていくのか、見守りたいと思います。
映画を図式的に分析するつまらなさを感じる。
映像は頭で読み解くものではない。想像力(共同幻想)を喚起されれば良いのである。