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マダム・クニコの映画解体新書

コピーライターが、現代思想とフェミニズムの視点で分析する、ひと味違う映画評。ネタバレ注意!

マンダレイ/ぬるま湯が好き?

2006-05-14 | 映画分析
最も好きな映画作家の一人、ラース・フォン・トリアーの、「アメリカ」3部作の2作目。
 フェミニズムの視点で批評してみよう。
マンダレイ
マンダレイという、アメリカ・アラバマ州の大農園にたどり着いたグレース。そこでは、70年前に廃止されたはずの奴隷制度が未だに生きていた。彼女は懸命にそれを廃止しようとするが、その縛りはなぜか黒人たちが望んで維持されていたのだった。

 「アメリカでは、まだ黒人を解放する準備ができていないから」と奴隷たち。 黒人だけでなく、女性や移民などすべてのマイノリティに対する根強い差別が、今も世界中で息づいているのだ。
 だから、民主主義なんてクソ食らえ。いっそのこと、奴隷制や反民主主義のほうがいいのでは、と監督は皮肉タラタラだ。

 グレースは、前作「ドッグ・ヴィル」で、女性である自分に大きな屈辱を与えた共同体(家父長制社会)を、父の権力を行使して殺戮、壊滅させた。

 時が経ち、現代における奴隷制度(家父長制社会)と遭遇した彼女は、再び父の権力を利用し、女性にとって理想的とされる民主的な共同体(女性と男性の平等な関係)に改革しようと立ち上がる。

 グレースの到着(父の法)と引き換えに、圧倒的な力を持っていた農園主のママが死ぬ(母の死)。
 残されたのは、新しい法律に適応できないことを恐れたママと奴隷頭の男性が、共同で作り上げた「ママの法律=秘密の本 」だった。
 この本は、死者が潜在的に存在し続ける空間(幽霊の再来=反復)であり、作者の意図を超えて多様な解釈を生み出す書き言葉(幽霊の到来)で構成されている。

 そこには、奴隷たちの生活や労働についての細かい規則と、階層による役割分担、性格・行動パターンによる7つのグループ分けなどが記されていた。
 これは支配マニュアルであり、屈辱の素、抑圧の処方箋であるが、奴隷(女性=妻)たちは毎日、マニュアル通りに 行動すればよく、不満はすべて主人(男性=夫)のせいにすることができるというメリットがあった。
 当然ながら、その楽チンさと引き換えに、自由や個性を発揮する余地はなく、単調な日々が続くし、生きがいもない。

 グレースの改革はなかなかはかどらなかった。
 役割分担が明確な、非民主的制度(家父長制)に慣れきった奴隷(女性)たち。
 抑圧のはけ口は、子供への虐待に繋がる。黒人女性が自分の子供たちを鞭打つシーンが痛ましい。
 さらに、彼ら(女性たち)は、長年虐げられてきたので、たとえ自由を得たとしても、それを謳歌する方法を知らない。
 自分の身体に「負のイメージ」を浸みこませてしまっているマイノリティ(女性)の悲劇・・・。
 
果たしてマンダレイで、民主的な共同体は成立するのだろうか。
 民主主義は、多数決により一つに集約される。そこには共存はなく、勝者と敗者を生むヒエラルキーの構造があるのみだ。
グレースの試みは、「公式時刻」さえも表決で決められる。この決定により、彼女は最後に致命的なしっぺ返しを受けることになる。
裏切り者の処刑も表決で決定される。グレースは被害者の復讐を避けるため、処刑人になることを引き受ける。

 共同体の中で、「マンシ(アフリカの王侯貴族の末裔)」ということで一目置かれていた金庫番ティモシーは、実は汚いドロボーだった。彼に性的な欲望を抱いていたグレースは、強姦に等しいセックスをさせられて失望する。
 改革とは裏腹に、家父長制社会(男尊女卑)の象徴である「マンシ」の男性に魅せられたグレース。この何たるパラドックス!
 当然、彼女は、ここでもしっぺ返しを受ける。 復讐を嫌っていたのに、表決により、彼を盗みの罪で鞭打ちの刑に処せざるを得なくなる。

 さらに、何と彼は「マンシ」ではなく、「マンシー(アフリカの王侯貴族の奴隷の末裔 )」だったことが判明する。彼女が以前追い払ったカードのペテン師がタネ明かをして、約束通り彼女の窮地を救ってくれたのだ。
 これは、予想外だった。
 ペテン師は彼女に、何事もプログラム通りにはいかないことを教えてくれたのだ。(綿花の種まきの時期のズレ、砂嵐による被害、思いがけない収穫なども、こうした教えの例え)

このように、記号の差異などいい加減なもの。黒人のジャックとジムの区別、顔を黒塗りされた白人と黒人の違いなどは、はっきりとは分らないのだ。
「ママの法律」でグループ分けされていた「1.誇り高き黒人」と「7.おべっか黒人」の差異も、グレースの願望が「1」と「7」を読み違えていただけ。
 記号は、解釈する側の考え方一つでどうにでもなるのだ。

社会学者の宮台真司は、自身のブログ で、次のように述べている。
 (米国では、)[「ルールを踏めば何でもあり」的開放性故に「ルールを踏まぬ輩」への排除的ヒステリーが帰結され易く、「宗教的善意への信頼」故に米国流宗教的善意と両立しないと見做された対象への排除的ヒステリーが帰結され易い皮肉がある ]と。

これは、グレースの希求するアメリカ的な民主主義の考え方とも共通する。
 彼女は「新しいルール」と「宗教的善意」を以って、マンダレイ=古い体質の共同体(家父長制社会)を改革しようとしたが、住人たち(マイノリティ=女性)は、ぬるま湯からなかなか出られない。
 ゆえに、彼女は、改革できないと判断。父の手下もいないし、「第二のママ」にはなりたくない、と逃走を図る。
 しかし、自身が決めた民主主義のルールによる「公式時刻」と、外の世界の「公式時刻のズレ、父の迎え(権力)を当てにした傲慢さにより、放浪の旅を余儀なくされる。

一人でゲートの外に放り出されたグレース(女性=マイノリティ)は、何処へ向かうのだろうか。

  「新しいマンダレイとは何か。いつか教えてほしい」との手紙を残す父。
 しかし、「再び、話し合うことはないだろう」と結ぶ。

凶暴な妻を持つ黒人バードは、絶望して自殺する。
 「アメリカはまだ、黒人を受け入れる準備が出来ていない。自分を責めるしかない」とのテロップ・・・。

  自分の内面を見ずに、外の世界ばかり見て、旧体質(家父長制)を改革しようとしても所詮無理だ。新しいことを始めるには、準備が必要である。
 まず、自分自身を変革すること。そして、父の権力に頼らないこと 。

「100年後も変わらないだろう」との言葉を残して、映画は終わる。
 女性(マイノリティ)差別 は、100年前も、今も、変わっていない。
 私たち女性一人ひとりが「旧体質(家父長制)の中にどっぷり浸かっている」ことを自覚し、反省しなければ、100年後も変わらないだろう。
 
 ラース・フォン・トリアーが、次作の完結編でどんな答えを出すのか、楽しみである。
★★★★★(★5つで満点)



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9 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (えめきん)
2006-05-16 21:59:45
TBありがとうございました。

僕は『ドッグヴィル』は好きなんですけど、『マンダレイ』は駄目でした。

第3部はどうなるんでしょうね?

今から気になります。
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TBありがとうございました (charlotte)
2006-05-16 23:39:17
こんばんは。

いつもながら深い考察に感銘を受けました。

どうも今回のブライスには手放しで褒められないのでした。

おっしゃるとおり、なんとかしたいと思っていても家父長制にどっぷり漬かっており内面を変えていない所をまさに自分に見てとっていたからでして…汗

わかっていただけに傷口を余計に広げられた気分で見ていてムカムカしましたよ。笑

次が気になりますね。見たくないのですが、多分見るでしょう…
返信する
第三部へ期待は膨らむ (butler)
2006-05-17 18:36:06
TBどうもありがとうございます。

この映画に関しては、女性のほうが男性よりも、深い洞察力で作品世界を分析していると感じました。

また、「ドッグヴィル」を評価した方々が、どうして第二部をそれほど気に入らなかったのかと不満を感じていましたが、貴女のブログを読ませていただいて、大いに勇気付けられた気がします。



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TBありがとうございました (mugi)
2006-06-09 20:32:20
TBありがとうございました。

私は“誇り高い奴隷”が主人公に鞭打たれながら言った台詞、「白人が我々をつくった」が印象的でしたね。

「テロとの戦い」を掲げながら、テロリストを生み出しているアメリカの現状と重なります。



ただ、「ぬるま湯」状態は弱者が生き易い側面もあります。内乱・戦争状態では弱肉強食、つまり強者が弱者を貪る状態が全面的に出ますので。残念ながら秩序と自由は相反するものです。
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ポストコロニアリズム (vlt)
2006-06-09 23:00:08
はじめまして。

TBありがとうございました。

典型的なポストコロニアリズムの例として観る人が多いのではないかと思っていました。フェミニズムの切り口も面白いですね。エントリを読ませて頂いてスピヴァクを思い出しました。

僕はフェティシズムの切り口で観てしまう事が多いです。厳密な記号論にのったものではないですけれど。

エントリ、また楽しみにしています。
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楽しみです (betty)
2006-07-06 13:57:59
>マダムクニコさん



「めるキアデスエストラーダの3度の埋葬」と「ブロークバックマウンテン」でのコメント&TBをしていただいた“シネマでキッチュ”のbettyです。



ラース・フォン・トリアーは好きな監督です。ところが「マンダレイ」は見逃してしまいました。とても気になっていました。

マダムクニコさんの記事を読ませていただき、とっても刺激的で感激です。



>私たち女性一人ひとりが「旧体質(家父長制)の中にどっぷり浸かっている」ことを自覚し、反省しなければ、100年後も変わらないだろう。<



自分にとっても痛いご指摘です。

でもきっとそうなのだろうと思いますよ~。

(映画を見逃したのがますます残念ですが、札幌の名画座にまた回ってきそうなのでそのときは見逃さないようにします)



こんな鋭い指摘に出会えるマダムクニコさんのブログを私のブログのお気に入りに入れてもよろしいでしょうか?
返信する
意識 (kimion20002000)
2006-08-29 12:29:13
TBありがとう。

とても、わかりやすい論拠でした。その解釈でいいんじゃないでしょうか。これらは、100年単位の意識と共同体形成の問題だと思います。
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凄いです★ (とんちゃん)
2006-11-12 11:16:50
またしても素晴らしいレビューです。
惚れ惚れしますね~~
自分のレビューが幼稚で削除したい気分です^^

ところで最後は父が手下を連れてたいまつを燃やして助けに来たのかと思ってましたが違うんですね。
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コメントありがとうございました (rino)
2006-12-16 16:10:47
こんにちは。
この問題はグレース側の視点ではレビューができないので短評で済ませましたが、コメントありがとうございました。
この3部作は人が神をする難しさと捉えました。
「ドッグ・ウィル」は全てを受け入れる女神を「マンダレイ」は罰を与える神を・・・
まさにマダムクニコさんの言われる“家父長制”ですね。
支配される側の準備が出来なければ・・・ですね。最後は神と女神を融合した神を見つけられるでょうか?今から楽しみです。
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