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190306 表 小包第1期 オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て
第1期、オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て
小包送票:オーストリア帝国12 heller(小包送票代金の収入印紙、小包料金に含まない)、ドイツ語、白紙
小包ラベル:Unter Drauburg 26 (ドイツ語表記)
切手:オーストリア1 Krone(Mi.199)、2 Kronen(Mi.208)、スロヴェニア20 vinar(Mi.103石版)、合計320 heller
料金手書き:
右上:小包発送料3.20 Kronen
右下:通知料金5 vinar (通知料金は受取人から徴収し不足切手で領収する)
料金計算:
重量料金14.5 kg---320 heller
合計320 heller (貼り付け切手と一致、料金手書きと一致)
消印:UNTER DRAUBURG 6. III. 19 (1919年3月6日)ドイツ語表記、スロヴェニア語名DRAVOGRAD
備考:ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン州の占領
ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン第1次占領は、1918年11月初めから1919年5月初めまで行われましたが、いったんオーストリア軍がケルンテン州を奪還しました。
そして再びユーゴスラヴィア軍が侵攻し、1919年5月末から1920年10月末まで第2次占領が行われました。一部の地域を除き、1920年10月10日の住民投票によりこの地域の帰属が決定され、オーストリアへの残留が決まりました。
UNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領は、1918年11月7日から1919年5月6日まで行われました。この町はいったんオーストリア軍に奪還されましたが1919年5月28日から再びユーゴスラヴィア軍の占領下に入り、住民投票の結果を待たずにユーゴスラヴィアへの併合が行われました。
この小包送票の使用例は、約半年間続いたUNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領の時期の使用例です。
参考文献
Poštni žigi na Koroškem ケルンテンの郵便印
スイスのArge der Balkanländerの会長Thomas Artel氏よりご提供いただいた資料です。
第1期、オーストリアのケルンテン占領地(第1次占領)からスロヴェニア宛て
小包送票:オーストリア帝国12 heller(小包送票代金の収入印紙、小包料金に含まない)、ドイツ語、白紙
小包ラベル:Unter Drauburg 26 (ドイツ語表記)
切手:オーストリア1 Krone(Mi.199)、2 Kronen(Mi.208)、スロヴェニア20 vinar(Mi.103石版)、合計320 heller
料金手書き:
右上:小包発送料3.20 Kronen
右下:通知料金5 vinar (通知料金は受取人から徴収し不足切手で領収する)
料金計算:
重量料金14.5 kg---320 heller
合計320 heller (貼り付け切手と一致、料金手書きと一致)
消印:UNTER DRAUBURG 6. III. 19 (1919年3月6日)ドイツ語表記、スロヴェニア語名DRAVOGRAD
備考:ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン州の占領
ユーゴスラヴィア軍によるケルンテン第1次占領は、1918年11月初めから1919年5月初めまで行われましたが、いったんオーストリア軍がケルンテン州を奪還しました。
そして再びユーゴスラヴィア軍が侵攻し、1919年5月末から1920年10月末まで第2次占領が行われました。一部の地域を除き、1920年10月10日の住民投票によりこの地域の帰属が決定され、オーストリアへの残留が決まりました。
UNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領は、1918年11月7日から1919年5月6日まで行われました。この町はいったんオーストリア軍に奪還されましたが1919年5月28日から再びユーゴスラヴィア軍の占領下に入り、住民投票の結果を待たずにユーゴスラヴィアへの併合が行われました。
この小包送票の使用例は、約半年間続いたUNTER DRAUBURG (DRAVOGRAD)の第1次占領の時期の使用例です。
参考文献
Poštni žigi na Koroškem ケルンテンの郵便印
スイスのArge der Balkanländerの会長Thomas Artel氏よりご提供いただいた資料です。