15 vinar印刷版
1. 1919年9月20日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
平滑白色~黄色紙(かなり固い)
hellblau明るい青色、trübblau濁った青色(FleckとNovakによるとblau青色とgraublau灰色がかった青色)
目打ち11 1/2
D. Novakによると296万枚。
S. Veselićによると、9月12日~19日に9904シート(300枚/シート)(297万1200枚)印刷し、1919年9月20日に郵便経済局に引き渡した。
(訳注: 集計には297万1200枚を使用。)
2. 1919年11月15日、凸版、ウィーン、A. Reisser Nachfolgern印刷所
平滑白色~黄色紙
hellblau明るい青色、graublau灰色がかった青色、türkisblau青緑色がかった青色
(FleckとNovakによるとkobaltblauコバルトブルー(明るい青色)、blau青色、graublau灰色がかった青色、türkisblau青緑色がかった青色、明白な二重印刷がある)
目打ち11 1/2と11
202万枚(D. Novakによる)
3. 1920年1月11日、凸版、ウィーン、A. Reisser Nachfolgern印刷所
灰色海綿紙
hellblau明るい青色
(FleckとNovakによるとblau青色の濃淡の存在)
目打ち11 1/2と11
100万枚(D. Novakによる)
4. 1920年2月11日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
stahlblauはがねのような青色~graublau灰色がかった青色
目打ち11 1/2
60万枚(D. Novakによる)
5. 1920年2月14日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
薄い多孔質縞紙
blau青色の濃淡、kobaltblauコバルトブルー(明るい青色)~grünblau緑色がかった青色
目打ち11 1/2
2316万8900枚(D. Novakによる)
6. 1920年2月20日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
blau青色、主にtrübblau濁った青色(多くの濃淡)
目打ち: のこぎりルレット
363万3000枚(D. Novakによる)
Deroccoは、上述の4~6の印刷版の代わりに次のように述べている。
4. 1920年2月11日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
graublau灰色がかった青色、及びschieferblau(スレートのような)濃い灰青色
目打ち: のこぎりルレット、11 1/2、複合目打ち(非常に珍しい)
Veselićによると、1月23日~27日に2万1161シート(200枚/シート)印刷し、2月5日~21日に100枚/シートを3万6330シート、200枚/シートを無目打ちで3000シート(恐らく後でザグレブ(クロアチア)で目打ち)、計96万3300枚納入。
5. 1920年4月、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
多孔質縞紙
trübblau濁った青色、schieferblau(スレートのような)濃い灰青色、hellblau明るい青色、kobaltblauコバルトブルー(明るい青色)、grünblau緑色がかった青色
目打ち11 1/2
2316万8900枚
S. Veselićによると、1月29日~4月1日に、800枚/シートを1万381シート、460枚/シートを1万904シート、345枚/シートを6万847シート印刷し、4月10日~13日に郵便経済局に引き渡した。
Fleck, Novakの記述とS. Veselićのものとでは大きな違いが存在する。
Deroccoによると、No.4印刷版は、FleckとNovakの言うNo.4と6の後に印刷された。
DeroccoとVeselićによると96万3300枚であり、そしてFleckとNovakによると423万3000枚である。
Deroccoによると、No.5印刷版は、FleckとNovakによるNo.5印刷版と一致し、そしてDeroccoは印刷量を2316万8900枚としている。
しかしながらVeselićによるとこの量は4049万2855枚としている。
我々は、FleckとNovakによる記載をより正しく実状に近いものとして扱う。
1. 1919年9月20日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
平滑白色~黄色紙(かなり固い)
hellblau明るい青色、trübblau濁った青色(FleckとNovakによるとblau青色とgraublau灰色がかった青色)
目打ち11 1/2
D. Novakによると296万枚。
S. Veselićによると、9月12日~19日に9904シート(300枚/シート)(297万1200枚)印刷し、1919年9月20日に郵便経済局に引き渡した。
(訳注: 集計には297万1200枚を使用。)
2. 1919年11月15日、凸版、ウィーン、A. Reisser Nachfolgern印刷所
平滑白色~黄色紙
hellblau明るい青色、graublau灰色がかった青色、türkisblau青緑色がかった青色
(FleckとNovakによるとkobaltblauコバルトブルー(明るい青色)、blau青色、graublau灰色がかった青色、türkisblau青緑色がかった青色、明白な二重印刷がある)
目打ち11 1/2と11
202万枚(D. Novakによる)
3. 1920年1月11日、凸版、ウィーン、A. Reisser Nachfolgern印刷所
灰色海綿紙
hellblau明るい青色
(FleckとNovakによるとblau青色の濃淡の存在)
目打ち11 1/2と11
100万枚(D. Novakによる)
4. 1920年2月11日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
stahlblauはがねのような青色~graublau灰色がかった青色
目打ち11 1/2
60万枚(D. Novakによる)
5. 1920年2月14日、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
薄い多孔質縞紙
blau青色の濃淡、kobaltblauコバルトブルー(明るい青色)~grünblau緑色がかった青色
目打ち11 1/2
2316万8900枚(D. Novakによる)
6. 1920年2月20日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
blau青色、主にtrübblau濁った青色(多くの濃淡)
目打ち: のこぎりルレット
363万3000枚(D. Novakによる)
Deroccoは、上述の4~6の印刷版の代わりに次のように述べている。
4. 1920年2月11日、凸版、リュブリャナ、Jugoslovanska tiskarna (ユーゴスラヴィア印刷所)
平滑白色~黄色紙
graublau灰色がかった青色、及びschieferblau(スレートのような)濃い灰青色
目打ち: のこぎりルレット、11 1/2、複合目打ち(非常に珍しい)
Veselićによると、1月23日~27日に2万1161シート(200枚/シート)印刷し、2月5日~21日に100枚/シートを3万6330シート、200枚/シートを無目打ちで3000シート(恐らく後でザグレブ(クロアチア)で目打ち)、計96万3300枚納入。
5. 1920年4月、石版、リュブリャナ、I. Blazniks Nachfolgern印刷所
多孔質縞紙
trübblau濁った青色、schieferblau(スレートのような)濃い灰青色、hellblau明るい青色、kobaltblauコバルトブルー(明るい青色)、grünblau緑色がかった青色
目打ち11 1/2
2316万8900枚
S. Veselićによると、1月29日~4月1日に、800枚/シートを1万381シート、460枚/シートを1万904シート、345枚/シートを6万847シート印刷し、4月10日~13日に郵便経済局に引き渡した。
Fleck, Novakの記述とS. Veselićのものとでは大きな違いが存在する。
Deroccoによると、No.4印刷版は、FleckとNovakの言うNo.4と6の後に印刷された。
DeroccoとVeselićによると96万3300枚であり、そしてFleckとNovakによると423万3000枚である。
Deroccoによると、No.5印刷版は、FleckとNovakによるNo.5印刷版と一致し、そしてDeroccoは印刷量を2316万8900枚としている。
しかしながらVeselićによるとこの量は4049万2855枚としている。
我々は、FleckとNovakによる記載をより正しく実状に近いものとして扱う。