チェインブレーカー及び関連領域の郵便史

ユーゴスラヴィア建国当時~1922年頃までの旧オーストリア・ハンガリー帝国地域のチェインブレーカーを中心とした郵便史

ユーゴラヴィア崩壊 本当の原因

2017年06月11日 15時35分25秒 | 歴史・社会的状況
スロヴェニア独立戦争(10日戦争)中のカバー
スロヴェニア独立戦争4日目の1991年6月29日に、MARIBOR(マリボール)市の南約5kmに位置する町HOČE(ホチェ)からマリボール市宛ての書留・速達便。スロヴェニア独立記念切手とユーゴスラヴィア普通切手の混貼り。
マリボール市に到着したのは7月1日(裏に到着印)です。たった5kmの距離しかなく、しかも速達便であるにも関わらず2日間もかかっています。これは、6月27日にユーゴスラヴィア連邦軍の戦車部隊がマリボール市内に突入して占拠していたためです。


私がユーゴスラヴィア(意味は「南スラヴ人の土地(国)」)の郵便史研究のための調査を始めた1991年3月から約3カ月経過した6月末のある日(6月28日頃だったと記憶しています)、NHKの夜7時のニュースの冒頭で、ユーゴスラヴィアのスロヴェニア共和国の高速道路に止められた数台のバスのバリケードを砲撃するユーゴ連邦軍の戦車の映像が映し出され、ユーゴ内戦が始まりました(スロヴェニア独立戦争(10日戦争とも呼ばれる))。

その後あっという間に戦火がユーゴ全体に広がり、クロアチア内戦(東スラヴォニアと南西部のクライナ地方)、ボスニア内戦、マケドニア独立、コソボ紛争、ユーゴ空爆と戦乱が続き、終には2006年にセルビアとモンテネグロが分裂してユーゴスラヴィアは完全に消滅しました。
この様子は、このブログをご覧の皆様もマスコミ報道でご覧になったはずです。
このようなユーゴスラヴィアの崩壊を見ながら、それと同時並行でその国の建国当時の郵便史の収集と研究を進めるという、何とも言えない皮肉なことになったことは予想外でした。

多民族・多宗教国家ユーゴスラヴィアが崩壊したのは、歴史的に積み重なった民族と宗教の対立の怨念が原因であると一般には報道され、学者もこのように解説しています。

しかし、崩壊前の状態を調べてみると、民族(スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人、ムスリム人など)、宗教(ローマカトリック、セルビア正教、イスラム教)の枠組みを越えた、「ユーゴスラヴィア人」という認識がかなり広まっており、チトー大統領の元で独自の社会主義の自主独立路線を引いていたこの国は、比較的豊かで自由で幸福な国であったことが報告されています。

このため、ユーゴスラヴィアがなぜ崩壊したのか、はっきりとした理由が分からない状態でした。

ところが最近、次の本を読むに至って、ユーゴスラヴィアの崩壊は、アメリカが計画的に仕掛けた秘密工作が原因であったことが明らかになりましたのでご紹介します。
マスコミ報道や学者の言うことは、全くの嘘であり、支配構造の強制的変化をもくろんだアメリカの地政学的な世界戦略が原因であったことが証明されています。

ロックフェラーの完全支配 ジオポリティックス(石油・戦争)編
ウィリアム・イングドール (著), 為清勝彦 (翻訳)
出版社: 徳間書店 (2010/9/30)

著者略歴イングドール,F.ウィリアム
1944年8月9日、米国ミネソタ州ミネアポリス生まれ。プリンストン大学政治学科卒業、ストックホルム大学・大学院で比較経済学を研究。70年代の石油・穀物危機を契機に以来30年余り、エネルギー、農業、貿易、金融など極めて広範な分野をカバーし、石油ピーク説・地球温暖化論の虚偽を暴くなど、稀有の分析力で世界支配の構図を鋭く解明している。独ラインマイン大学経済学講師、北京化工大学客員教授。現在、妻とドイツに在住 (以上はアマゾンの情報)


p.423~
ワシントンと相棒1M Fが決めた 民族主義的経済優等生は危険につき
ポスト冷戦、緩衝地帯はもう不要とユーゴスラビア処分

 米国製の経済「ショック療法」がソ連に処方されるずっと前に、バルカン半島諸国が米国の干渉の標的になっていた。ワシントンが早い段階でユーゴスラビアに注目するようになったのは、ユーゴスラビアの経済モデルの破壊が重要だと認識していたからである。中央アジアの潜在的な石油資源という意味で、一九九〇年代中盤に向け、ワシントンにとってユーゴスラビアの戦略的位置づけは、ますます重要になっていた。一九九〇年代後半を通じ、ワシントンのバルカン政策では、石油とドルが決定的に重要な意味を持っていた。だが、それは西側の評論家が想像したような単純な内容ではなかった。(17)

 ベルリンの壁が崩壊するずっと前に、ワシントンはいつもの相棒(IMF)と一緒に、当時ユーゴスラビアだった地域で忙しく働いていた。ユーラシアの地図を第一次世界大戦以前の状態(英国他の利権がオスマン帝国を解体し、ドイツのバグダード鉄道の夢を砕こうとして介入したときの状態)に戻すため、バルカンの民族主義は外部から操られていた。

 その狙いは明らかだった。
ユーゴスラビアを、自立できないほど小さな国に細分化し、西欧と中央アジアの交差点に、NATOと米国の足場を築きたかったのである。石油と地政学は、再びワシントンの最大関心事になっていた。

 皮肉にもー九九〇年代初期に、まさにNATOの存続理由だったワルシャワ条約機構が解体され、NATOの意義は消滅したかに思えていた。どんな脅威があれば、一九四九年の冷戦同盟(西欧全域への米国の軍事展開)を継続させる理由になるというのだろうか? ましてNATOを東へとさらに拡張させる理由がないことは言うまでもない。多くの人は、ソ連の脅威が確実に消滅したのであれば、NATOも解体になると期待しでいた。だが、ソ連の崩壊を待たずしで、既にワシントンの戦略家はNATOの新しい任務を考え始めていた。

新たに提案されたNATOの任務は、「NATOの域外配備」と名付けられ、NATO加盟国の国境をはるかに超えた活動を意味していた。さらにこの新任務は、1994年、「平和のためのパートナーシップ(PfP)」と結合した。PfPは、旧ワルシャワ条約機構の軍事力を、順次、米国が率いるNATOに統合していくというワシントンの計画である。

共和党のリチャード・ルーガ上院議員は、冷戦が終わっても米国が支配するNATOというジレンマを「NATOの選択、域外派兵か、それとも失業か」という名言で表現している。実に都合の良いことに、バルカンの戦争(ユーゴスラビア紛争)は、ワシントンにとってNATOを延長する絶好の理由になったのである。この紛争は十年以上続くことになった。

ワシントンは、四十年間以上、ソ連に対抗する緩衝地帯として、ユーゴスラビアとチトーの独自社会主義モデルを目立たないように支持していた。だが、ソ連がバラバラになると、緩衝地帯の価値はなくなっていた。むしろワシントンにとっては、経済的にうまく機能していた民族主義の部分は、近隣の東欧諸国に対し、極端なIMFショック療法ではなく中道的な経済形態もあり得ると気付かせる可能性があったため、危険だった。ワシントン上層部の戦略家にとっては、この理由だけでも、ユーゴスラビア型の経済は解体しておく必要があった。ユーゴスラビアが中央アジアの潜在的な石油資源への最短経路に位置する事実は、補強理由になっただけである。ユーゴスラビアは、必要とあらば、絶叫させ、くたばらせてでも、IMF流の自由市場改革に組み込まなければならなかった。そのケリはNATOがつけることになった。

 ソ連の体制が末期状態にあることが明白になっていた一九八八年には既に、ワシントンはユーゴスラビアにアドバイザーを送り込んでいる。その人々は、ワシントンの仲間たちが、NED(米国民主主義基金)と呼んでいた、大仰な名前を持つ奇怪な私的・非営利組織だった。この「民間」組織が、ユーゴスラビアのあちこちで気前よくドルをばら撒いて、反体制グループに資金を提供し、空腹を抱えて新しい暮らしを夢見る若いジャーナリストを買収した。また、反体制の労働組合、IMFに好意的な反体制派経済学者、人権擁護のNGOに資金を与える活動を始めた。

 それから十年後の1998年(NATOがベオグラードを爆撃し始める一年前)、NEDの責任者ポール・マッカーシーは、「ソロス財団とヨーロッパ系の財団も若干いたが、NEDは、ユーゴスラビア連邦共和国で補助金を支給し、地元NGOや独立系メディアと一緒に行動した数少ない西側の組織だった」と、ワシントンで自慢気に話している(19)。冷戦の時代であれば、そんな外国への内部干渉は、CIAの不安定化工作と言われた類のものであるが、ワシントンの新言語では「民主主義の促進」と翻訳された。結果的に、セルビア人、コソボ人、ボスニア人、クロアチア人たちの生活水準は、壊滅状態になった。

1990年以降にユーゴスラビアで起こったことの意味を理解したのは、わずかな内部関係者のみだった。ワシントンは、NED、ジョージ・ソロスの「オープン・ソサエティ財団」、IMFを使い、地政学の政策を進める道具としてユーゴスラビアの経済混乱を発生させたのだ。一九八九年、IMFはアンテ・マルコピッチ首相に、経済構造改革を強行するよう要求した。理由はともあれ、彼は実行した。


**注:
当時NEDの代表だったマッカーシーは、1988年以来、旧ユーゴスラビアのさまぎまな反体制組織、ジャーナリスト、マスコミ、労働組合への資金掟供でNEDが果たした役割を詳しく説明している。NEDは1983年のレーガン政権のときに設立され、ワシントン内部で「諜報機関の民営化」と言われていたものの一環だった。1960~70年代にCIAが前線組織に資金提供していたことが明るみになり痛手を被ったが、議会はNEDのような「民間」組織を設立・資金援助することに同意した。やることは同じだが、公然とすることになった。1991年9月21日の「ワシントン・ポスト」 のインタビューで、N E Dの立案者Allen Weinsteinは、「今我々がやっでいることの大半は、25年前にはCIAが極秘でやっていたことだ」と述べている。ある邪悪なCIAのエージェントは、NEDの人道的「運動家」に変身している。主権国家の不安定化工作で非難されるどころか、NEDの運動家は、セルビアやブルガリア等で彼らの敵を「腐敗した民族主義者」と非難している。2003年後半にはフセイン後のイラクを「民主化」する主役を務めるよう、ブッシュ政権がNEDを教育していた。**


 IMFの政策により、ユーゴスラビアのGDPは、一九九〇年には7・5%低下し、一九九一年にはさらに15%低下した。工業生産は、21%も急減した。IMFは、国営企業の大量売却=民営化を要求した。その結果、一九九〇年までに、千百社以上が倒産し、20%以上が失業した。国の各地域にかかった経済圧力は、爆発性のカクテルとなった。予想できでいたことだが、経済混乱が進む過程で、各地域は生き残りをかけて近隣の地域と争うようになったのだ。完膚なきまでに破滅させるため、IMFは、あらゆる賃金を一九八九年の水準で凍結するように命令した。激しいインフレが進行する中、一九九〇年上半期で実質賃金は41%低下した。一九九一年には、インフレ率は140%を超えていた。そして、この状況で、IMFは、通貨ディナールの完全兌換性と金利の自由化を命じたのである。ユーゴスラビア政府が、自らの中央銀行から借り入れるのを阻止し、社会政策等に必要な資金を調達する能力を麻痺させようとしたIMFの意図は明白である。こうした凍死状態の経済により、一九九一年六月にクロアチアとスロベニアが正式に分離独立宣言するまでもなく、既に経済的には事実上の分離状態になっていた。
  

違法な内政干渉 狙いはカスピ海油 連邦解体、ボスニア戦争、コソボ戦争
IMFショック療法は図に当たりバルカンは流血と憎悪の渦に

一九九〇年十一月、ブッシュ政権の圧力で、米国議会は「海外活動予算法」を可決した。
この新法には、所定の六カ月以内にユーゴスラビアからの独立を宣言することができない地域は、全ての米国の資金援助を失うことになるとの条項があった。また、この法律は、ユーゴスラビアの六つの共和国が、アメリカ国務省の監督の下、それぞれ個別に選挙を実施するよう求めていた。さらに、どんな援助も、ベオグラードの中央政府ではなく、直接個々の共和国に対してなされると規定された。要するに、ブッシュ政権は、ユーゴスラビア連邦の自滅を要求したのである。新たなバルカン戦争の導火線に、わざと火をつけたのである。

 ソロス財団やNEDなどを経由したワシントンの資金援助は、確実にユーゴスラビアの分断につながるよう、過激な民族主義者や元ファシスト組織に向けられることが多かった。IMFのショック療法とワシントン直々の不安定化工作のミックスに対抗し、ユーゴスラビア大統領(セルビアの民族主義者スロボダン・ミロシェビッチ)は、一九九〇年十一月に新しい共産党を組織した。そして、ユーゴスラビア連邦の分断を阻止する役に専念することになった。十年におよび二十万人以上の死者を出した、陰惨な民族間の殺し合いの舞台は整ったのである。

 規模は小さいが戦略的に重要なバルカンの地に、経済圧力が加えられようとしていた。ブッシュ政権がスイッチを押そうと身構えていた。一九九二年、ワシントンはユーゴスラビアに全面的な経済制裁を課し、全ての貿易を凍結した。その結果、経済は、ハイパーインフレと失業率70%という破滅を迎えた。西側の一般市民、特に米国民は、支配層のマスコミから、悪いのは全てベオグラードの腐敗した独裁者だと聞かされていた。アメリカのマスコミが、ワシントンの挑発行為やIMFの政策がバルカンにもたらした惨状を伝えることは、あったとしても極めて稀だった。
(20)

一九九五年のデイトン合意で、ボスニアの戦争は終結した。この時期と場所は、クリントン政権がカスピ海油田の戦略的重要性を認識した時期、そしでEUがカスピ海の石油をバルカン経由のパイプラインで欧州に引き込み利用しようと努力していた場所と、符合していた。ワシントンは、カスピ海から欧州への石油ルートを開発するには、この地域の平和が必要だと判断していたようである。だが、それは、ワシントンに都合の良い 「平和」でなければならなかった。

 デイトン合意の後、かつて多民族的だったボスニアは、事実上、イスラム国家となり、実質的にはIMFとNATOの属国になった。クリントン政権は、ボスニアのイスラム軍の武装に多額の資金支援をしていた。国際メディアは、アメリカの介入なくしては、自らの国境を接する地域の紛争の解決もできないと、EUの無力さを印象づけるように報道した。そうした中、ワシントンの意図するNATOの東方拡大を正当化する議論が大きく前進した。五年前には考えられなかったことだが、ハンガリー、ポーランド、チェコが、NATO加盟の候補にあがるようになっていた。

 間もなくクリントン政権は次の段階に移行し、バルカン諸国に残留している民族主義者を排除する作業に入った。ワシントンの計画に合致しない政策を掲げる可能性があるからだ。英米石油会社は、カスピ海(バクー沖と中央アジアのカザフスタン側)の地下にあると思われる膨大な石油資源の開発に大急ぎで乗り出した。地質学者は、カスピ海には「新しいクウェートかサウジアラビア」があると話していた。それが本当であれば、二千億バレルを超える石油埋蔵量があり、過去数十年で最大の油田発見になるかもしれないと米国政府は見積もっていた。高収入のワシントンの政治屋ズビグニュー・ブレジンスキー(補足: 外交問題評議会CFRの大物政治家、ロックフェラーの腹心の部下、日米欧三極委員会の発案者)は、カスピ海の石油地帯に大きな権利を持つ英米系巨大石油企業BPの利益を代表していた。