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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中井久夫+山口直彦 看護のための精神医学第2版 医学書院

2019-07-15 23:07:00 | エッセイ

 中井久夫は、精神科医、精神病理学者にして、ポール・ヴァレリーや現代ギリシャ詩の翻訳家であり、恐るべき教養人にして思想家である。

 山口直彦は、精神科医、神戸大学医学部で、中井が精神科の教授のときの助教授、この著作においては、共著者であり、有能な助手、編集者の役回りと言っていいだろう。

 精神科病院の看護師を目指す学生のための教科書、副読本として編まれたものとのことだが、広くそれ以外の、精神医学に関心を持つ一般の人びとに向けての非常に優れた概説書、入門書である。教科書とはいっても、いわゆる無味乾燥な、項目を並べて解説しただけの概説書ではない。

 中井久夫という人間のよく表れた、精神医学というものの中井の捉え方がよく表された、優れた読み物でもありえている書物である。

 山口のあとがきによれば、この書物は、そもそも、1983年に中井に執筆依頼のあった医学書院刊の看護教科書の、精神科分の二つの章がもとになっているとのことである。原稿を一読した山口は、その内容に感動したという。

 

「最終的に教科書を編集する段階で、中井の書いた量は許された紙幅を大きく超えていた。内容も看護師の私生活のアドバイスまで多岐にわたり、共著者の立場を忘れて読んだ私には、感動ものであった。」(333ページ)

 

 感動しながらも、原稿は長過ぎた。山口は、「中井の原稿を削る役が一任され」、「一存でこころを鬼にして削りに削った」。

 

「この教科書はその後1992年まで、看護教育機関で広く使われたようである。私が削ったおかげで、おもしろさは半減以下になったが、それでも『読ませる教科書』としての評価が私の耳にも聞こえてきた。」(334ページ)

 

 削る前の中井の元原稿は、山口が大きなビニール袋に入れて保管しておいたという。

 その後、(ここは、337ページの中井自身のあとがきによるが)、教科書の該当部分は他の著者のものに差し替えられていたところ、学生時代にその教科書で教育を受けた看護学の指導者たちから、再版を求める声が絶えなかったのだという。

 1999年、医学書院の編集者が、山口のもとを訪れ、元原稿をもとにしたあらたな精神科看護教科書を出版したいと申し出たという。当初の本に載っていた部分、元原稿から削除された部分に、その時点で新たに書き加えた部分を含め、2001年に、本書第1版が世に出た。

 その後、「精神分裂病」を「統合失調症」と呼び変えるという精神医学界にとっての大きな出来事を経て、2004年に第2版が発行され、私が買い求めたのは、2018年発行の第2版第14刷と、増刷を重ねている。

 最初の章「はじめに考えておくこと」の第3項目「精神科看護に求められること」において、中井は、次のように書いている。

 

「精神科は、はじっこの科目に見えるかもしれない。実際は、医学の最も基本的伝統に忠実な、中心的臨床である。精神医学はともかく、精神科看護はたしかにそうである。

 したがって、精神科看護は小手先や口先の技術ではない。精神科にはいろいろの流派の精神療法があって、競いあっている。この狭い意味の精神療法は後に述べるが、広い意味の精神療法に支えられなければ、害はあっても益はない。広い意味の精神療法とは、患者にたいする一挙一動、たとえば呼び出すときの声の調子や、薬をわたす手つきへの配慮を含むものである。これがわかっていなくて狭い意味の精神療法に熟練した人は、医師であろうと看護師であろうと、患者にたいしてかなり危険な治療者である。」(9ページ)

 

 「広い意味での精神療法に支えられ」ていること。

 このことは、精神科看護のみでなく、精神医療全体として、肝要なことであろう。この本に著された中井久夫の方法の核心にこのことばはある、のだと思う。(そして恐らく、精神科に限定されない医療全般に関しても)

 私などは、病棟への囲い込みだとか、薬物療法のみが医療の領分だとか、これまでの精神科医療についての偏見に囚われがちであったところもある。フロイト、ユング、河合隼雄など精神分析系の書物に慣れ親しんできて、薬物療法中心の精神科医療についての不信感みたいなものは持ち続けてきたといって過言ではない。

 しかし、そうだな、齋藤環に導かれるように、ここにきて中井久夫と出会って、なにか開眼したというか、パスカル風の回心とかいうと大げさかもしれないが、なにか、大きな謎がひとつ解けた、という風にも言えるかもしれない。

 もっと早くに、中井久夫と出会うべきであった、とは言える。しかし、今だからこそ出会えた、ということなのかもしれない。

 医学、看護学のみならず、哲学、心理学、カウンセリング、福祉関係者も含め、人間の精神に関心を持つ人びとにとって、読むべき名著と言っていいのだと思う。

 ところで、私の好みということでいうと、文学がらみの下記のような個所はぜひ、引用しておきたいところだ。さまざまな精神疾患を解説する前に、その疾患の状態をあまり自分に引き付けずに距離感をもって読み進めるよう注意をうながしているところである。

 

「これからの話は、自分に引き寄せて読まないこと。他人事と思ってほしい。読んでいて釣りこまれないでほしい。

 『多くの狂気をもっている人が正常で、一つの狂気をもっている人が狂人だ』[ローベルト・ムジール、20世紀はじめのオーストリアの作家]。また、『季節よ、城よ、無傷なこころがどこにあろう』[アルチュール・ランボー、19世紀フランスの詩人]という詩がある。

 ”季節“は、流されたり、ふたたびめぐりくるものを代表している。”城“は、動かず留まるものの代表だろう。どちらも人生の一部だが、ものごころついて以来こころに一つも傷のない人はいないだろう。」(4ページ)

 

 ムジールは『特性のない男』で知られる小説家(私は読んだことがないが)。ランボーは、かのランボーである。ファーブル昆虫記の翻訳で知られるフランス文学者・奥本大三郎元埼玉大学教授が、まだ非常勤講師でお出でになっていたころ、1年間、原典購読でご指導をいただいたランボーである。

 というところで、中井久夫は引き続き読み続けるつもりである。


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