ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

堀畑 裕之 言葉の服 ―おしゃれと気づきの哲学 トランスビュー社

2019-12-23 23:38:59 | エッセイ
 堀畑 裕之氏は、生年月日が、この書物自体にも、ネットでも出てこないが、同志社大学の大学院で哲学を学び、ドイツに留学も経験して、1995年に文化服装学院に入学とあるので、博士課程満了後すぐということであれば、27歳前後ということになる。そこから逆算すると、1968年前後の生まれとなる。
 だとすれば、1956年生まれの私と丁度一回り違うことになるわけだ。50歳を過ぎたところか。
 1998年に、パタンナーとして川久保玲のコム・デ・ギャルソンに入社、2005年に、パートナーの関口真希子氏とともに、服飾ブランドmatohu(まとう)を立ち上げたという。
 私は、と言えば、埼玉大学教養学部哲学思想コースで学び、卒業後1978年に、服飾メーカーのJUNに入社したが、2年でギブアップして退社した。都会の通勤の満員電車がほとほといやになったというだけでなく、給料の半分以上も服飾に費やすようなファッション業界についていけなかったのが最大の理由である。パターンや縫製の技術、布帛などの素材への知識もない、それほどの興味も持てない。センスの面でも、太刀打ちできないのは言うまでもない。帰郷して、市役所に入職し、その後の人生を過ごすこととなる。
 大学で哲学を学んだとは言っても、4年間一般教養をおさらいしたのみで卒業したと語っている通りで、専門的な学として修めたわけではない。哲学的に、ひとが装うとはどういうことかという問題意識でもってファッション業界に入ったとは語っていたが、実際のところは、出版社、レコード会社、広告代理店と入社試験に落ちて、たまたま滑り止めで受験した会社に入社したに過ぎず、何かの覚悟があったわけでもない。(今の学生のように、百社もエントリーしてという話ではなく、6社受けて、5社落ちたに過ぎないのであり、考えてみると、ずいぶん牧歌的な話でもある。)
 JUNは、当時、Classical EleganceのTシャツが売れたり、婦人服ブランドのROPĒが、女性誌ananの人気ナンバー1になったとか、ブラック・ミュージックの人気番組で、ダンスを踊るシーンばかり流していた「ソウル・トレイン」のスポンサーだったり、相当に勢いのあるメーカーではあった。
しかし、社員は、自社のものを喜んで着ているわけではなくて、稲葉賀恵のビギ、菊池武夫のメンズ・ビギ、川久保玲のコム・デ・ギャルソン、山本耀司のワイズとかに目が行っていた。
 当時、アイロンをかけずに着る、まっ白なダブダブの大きなシャツが、ビッグシャツと称して、まあ、ずいぶんと売れて、どんどん増産を重ねた。いわゆるYシャツと同様のものだが、エリが小さくて、かっちりしていないほうがいい、しわがあっても構わないという着方で、これは相当に革命的な出来事であったと言っていいと思う。ファッション業界の出来事として、と同時に、社会的にも大きな出来事だったような気がする。
 とは言っても、この商品は、JUNのオリジナルだったわけではない。コム・デ・ギャルソンの真似だったはずだ。当時勃興したデザイナーズ・ブランドの作品と同じようなデザインのものを、リーズナブルな価格で提供することで売れ行きを伸ばした。ハイセンスな流行ものを、ボリュームゾーンよりは上で、手の届く価格で、みたいなところで成功した。
 私が入社する前には、VANとかJUNとか並び称され、アイビーにたいしてヨーロピアンだとか言って、時代の先端を走った時代もあったはずだが、売上的には成長しつつ、モードの先端から一歩下がったところに立ち位置を変えていた、というか、先端には立ち得なくなっていたわけだ。私は、そういう時代に2年間を過ごす経験をした。
 というわけで、私は、堀畑氏とある意味で似たような経歴を持つと言えないことはないわけだが、彼は、哲学も、ファッションも、専門家としての道筋を経た、それに対して、私は、どちらも玄人の域に達することはなかった、というわけだ。ありていに言えば、ついていけなかった。彼はプロフェッショナルで、私はディレッタントということになるか。
 気仙沼に戻ってきてみると、私自身としては最先端のファッションを追い求めることなど、そもそもしていないのだが、なんというか、良きポジションに自ずから立ってしまっているというか、着るもので困ったとか悩んだなどということはなく過ごしてきた。当時の気仙沼には、ワイズやコム・デ・ギャルソンを扱う小さな店が数軒あって、むしろ、仙台から買いに来た、みたいな不思議に先端的なところもあった。その後、それらの店は、仙台に支店を出して、本拠地はそちらに移転して、みたいな流れにはなるのだが。
 ところで、当時、無印良品というブランドが登場している。ちょうど、私が気仙沼に戻ってくる前後である。無印という名のブランド、ブランドレスを名乗るブランドというおかしな名前なのだが、これは、まさに私のために創設されたブランドと思えた。私は、今後、無印良品さえ着ていればいい、というふうに思えた。ワイズも着なくていいし、パパスも着なくていい。
 もう少し広げて言うと、糸井重里、西武、パルコ、無印、みたいな、辻井喬=堤清二がプロデュースした流れのなかと言えばいいか。
 ここらは、なんというか、全然ファッションなど気にしていませんというのが、実はいちばんファッショナブルだみたいな逆説がある。ごてごてしたものよりは、シンプルがいい、と。
 まあ、その後、ユニクロも登場して、さらに状況は変わっていくのだが、いまでも、基本的には、無印良品さえあればいい、というのは変わりがない。
 考えてみると、イッセイ、寛斎、ケンゾーから、川久保玲、山本耀司らを経て、無印良品に至ってはじめて、私たち日本人が、借り物でない自分たちの洋服、普段着としての日本の洋服を獲得したと言っていいのかもしれないな。
 おっと、堀畑氏の著作の紹介からはずいぶんと脱線してしまった。
 冒頭、「はじめに」は、「今、わたしたちはどんな服を着ているだろう」とサブタイトルが付されている。

「あなたは今どんな服を着ていますか?…中略…
問いかけているのは、おシャレかどうかではなく、安いか高いかでもない。毎日着ているこの服が、私たちが「今どこにいるのか?」を正確に教えてくれる。実はそれは歴史を輪切りにすることだ。」(2ページ)

「衣食住と、それに結びつくすべての技術(アート)や工芸(クラフト)を、その土地に根ざしたものへと耕し返す。水を与えるのは、私たち自身の日々の生活の小さな気づきだ。そんな気づきから少しづつ育った美意識を書き綴っていったのが、このささやかな本である。」(5ページ)

 この書物は、日本の花鳥風月を描き、藍染めや茶道や風姿花伝を書き、いわゆるエッセイであり、身辺雑記風の随想である。それが、服を作るという具体的な作業に結実することがベースとなっている。さらに、それが、哲学的な思考によって昇華されていく。まさに私に読ませるために書かれた書物である、と言ってしまいたい。モンテーニュのエセーが試論であるという語源にさかのぼった意味でのエッセイたりえている、というか。
 鷲田清一の『モードの迷宮』という名著がある。堀畑氏は、ことの出発点から『モードの迷宮』に深く傾倒して、哲学を学び、服飾を志されたようである。最後の章は、鷲田氏との対話を収録している。京都の町を二人で歩き、祇園、哲学の道とたどり、ある和菓子の店にたどり着く。
 私は、出版時からその存在は知っていたが、なぜか、すぐには出会うことがなかった。1989年、33歳のころである。堀畑氏は、大学で哲学を学んでいる最中であったはずである。私は、60歳になろうとするときにようやく手に取ることができた。
 堀畑氏のブランド「matohu(まとう)」は、HPを見ると、ハイ・ファッションであり、われわれが通常に着るには敷居が高いが、哲学者・鷲田清一と、デザイナー・川久保玲の思想の直系の後継者として、前衛であり続けていただきたいものと思う。

(参考)
鷲田清一 モードの迷宮 ちくま学芸文庫

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