ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

詩誌回生す号 付録あめのちかいせい 快晴出版

2023-03-01 22:15:42 | エッセイ
 小熊昭広さん編集の「回生」す号(通巻第48号2022.12.24発行)に、やまうちあつしさん編集の別冊付録「あめのちかいせい」がついている。
 本誌の方で「霧笛」140号の紹介もあったり、ここでも紹介すべきところだが、今回は、別冊の方のみの紹介させていただく。
 冒頭は回生連詩と銘打って「誰そ彼、解毒」。やまうちあつし、小熊昭広、前沢ひとみ、武田こうじ、金子忠政による連詩の試みである。
 やまうち氏から順に5名が書き連ね、それを2周廻す。


 内にこもっていたはずが
 少しずつ外を出歩きはじめ
 素顔を覆っていたものを
 捨て去るべきかどうか迷う
 まなつの地球              (やまうち)


 日のめぐりから外れ
 あっちに行ったり こっちに来たりして
 入道がのぼる合間の呼び方を誰かに尋ねている
 犬歯が突き刺さる平綴じの硬い紙にザマアミロと書いたとき
 姿形の違う同じ人間に何度か出逢った    (小熊)
 

 象の目とそっくりだった
 インプットされないように慌ててコトバを折り畳んだ
 両手を空に広げて鼓動だけをさらけ出していると
 ウインカーの音と重なり合っている
 どこへ向かおうとしているのか       (前沢)


 長い仕事だよ
 だけどまだ一日も働いていない

 この詩を書き始めてから何百年経ったのだろう
 おれは最初と最後を知っている       (武田)


 サボタージュしようと待ちぼうけて
 象の目をしゃがんでじいっと見上げ
 どいつもこいつも犬歯を剥き出しにしてしまい
 素顔を隠し通せず
 傷が火照り
 汗じみていじけてくる           (金子)
           (以上、1巡目のみ)
 
 やまうち氏は、末尾に、

「どことなく手探り感のある一周目に対し、二周目ではどの書き手も解放されたように自由度が増しているように読める。…脈々と「自分が何者か探る」ニュアンスが、通底音として流れていはしないか。タイトルは全文が完成した後に、やまうちが考案した。正体を探りつつも定かでないまま夕暮れを迎え、けれどもそれが最終連の透明な涙で浄化されるようなイメージに集約される。特に終盤二連の解放されてゆくようなやわらかい筆致を、「解毒」という言葉で呼びたいと考えた。」

と記す。
 そうか、「正体を探りつつも定かでないまま夕暮れを迎え、けれどもそれが最終連の透明な涙で浄化されるようなイメージ」、なるほど。
 ちなみにこのタイトル「誰そ彼 解毒」とは、だれもがマスクで表情を隠す現今のコロナ禍の、病原の毒が無毒化する時を希う祈りであることは言うまでもない。護摩を焚く雨乞いの呪術の祈祷場のような神々しささえ、どこかに漂っている、と言っては言い過ぎかもしれないが。
 次回には、ぜひ、私もその席に加えていただきたいものだ。
 やまうちあつし氏の、連載第一回(最終回)と銘打たれた「サクソフォンが夜の道を歩いていた」、言葉とジョン・コルトレーンの肖像、レコードジャケットや惑星の図を構成した不思議な作品。
 芽惟さんの、mei projectと銘打った「いろえんぴつ」のコーナー、今回は灰色の灰がテーマとのこと。小熊さん、芽惟さん、中村正秋さんの灰色にまつわる詩が掲載され、写真の構成物が掲載されている。ちなみに次回は紫がテーマで、詩を募集しているらしい。応募してみようか。
 で、次のページに、「詩をつくるひと」ということで、やまうち氏によるインタビュー、記念すべき第1回は「気仙沼を拠点に様々な活動を行っているこの方である」ということで、私が取り上げられている。
 やまうち氏は、インタビュー後に、

「地元への愛情と、そこでの様々な活動が詩作品に結実してゆく様が、鮮やかなストーリーを描いているようでうらやましい。「(無駄な表現を)捨てることが得意になってきた」「美しい詩集を作りたい」など、印象に残る言葉をたくさん聞くことができた」

と記される。有り難いことである。
 そうそう、私は美しい詩集を作りたい。やまうち氏の問いに「可能であればハードカバーの絵本のようなもの」と答えた。
 ちなみに、私のプロフィールの詩集名のローマ数字が文字化け(ⅡとかⅢが、無意味な記号に化けてしまった)して申し訳ないということで、小熊さんから正誤表を付けていただいたが、その裏面に私の詩「俺はドストエフスキーも読まなかった」を掲載していただいた。なんとも恐縮なことである。




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