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ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

佐々木中(ささきあたる) 夜を吸って 夜より昏い(河出書房新社)

2013-04-22 14:56:00 | エッセイ
 佐々木中は、1973年、青森生まれ、東大の文学部から博士課程まで進んだ哲学者、文学者。河出文庫の「夜戦と永遠―フーコー・ラカン・ルジャンドル」上下巻を読んで、小説はこれが、私の読んだ一冊目。
 本の帯には「圧倒的な力を発揮する文体、不穏な力秘めた作品」、また「知性を感じる。圧倒的な結末、記憶に残る達成。後半期ベスト1」と、東大や一橋大の教授がコメントを寄せている。
 いま、もっとも高名でポピュラーな作家の最新作を手にして、いや、これよりも先に、と、未読の本の中から、「夜を…」を引きぬいた。

 「終夜(よもすがら)、拠(よ)るところもない夜の寄る辺なさに因(よ)る、片寄る、偏(よ)る、ゆえに身ごと揺(よ)る、選(よ)ることも出来ず言い寄る、そして儚く消える便(たよ)る、頼(よ)る、ことも、なくなる、また夜、だ。」(カッコ内は本文ルビ)

 これが、その冒頭だ。散文詩のような書き出し。文法的に正しいのか正しくないのか、一読明らかではない。分かりづらい。主語が無い。主体が明らかでない。もちろん、日本語は、主語が明示されない言語だ。文学作品においては、少なくとも、明示的な言葉としては表示されないことがままある。源氏物語の昔から。
 佐々木中は、紫式部の後裔である。佐々木中の津軽の佐々木氏が、たとえば、近江源氏の中世婆沙羅大名佐々木道誉の系であるとすれば、どこかで藤原氏の子孫の地方官との血縁が交わるなどということも考えられないではないが、これはもちろん、冗話。無駄な与太話はさておき。
 160ページの長さ、それほど長い作品ではないが、最後まで、読み進めることができるのかどうか、いささか、案じられる思いで読み始めた。通常散文詩は、長くてせいぜいが3~5ページ程度である。こらえて、こらえて読み進める。
 「彷徨わねばならない」、「響(とよ)み」、「せつないしぼり腹」、トイレのことを「厠」、足音でなくて「跫音(あしおと)」、「赤子のゆびの繊弱(ひわ)やかに」、「花車(きゃしゃ)」。「○果(りんご)」、このりんごと読ませる熟語の一文字目は、IMEパッドでも出てこない。この衒学、あえて古臭い表現。こんな文章をだれが喜んで読むだろうか。見開きに、カタカナがひとつも出てこない。9ページにようやく「眼鏡のブリッジ」と。まあ、このあとはところどころ出てくるが。
 こういう主語を明らかにしない擬古体の文章が続いたあと、急遽、コンピュータのプログラム言語みたいなものが登場し(主人公は、その辺の仕事らしい)、打ち間違いもそのまま残したチャットが現れる。古代と現代が無造作に混ぜ合わされて放り投げて置かれる。さらには津軽弁。
 こらえて読み進めるうちに、いつのまにか、自動的に読み続けることができてくる。例の官邸前のデモや、若い女も登場し、色ごともあり、(どうやら三十歳代の津軽出身の兄弟がデモに参加したらしく、そこで、同じ津軽出身の若い女と出会ったらしい)、その若い女が、とびきりの美人とかではないようだが、どうやら、相応に魅力的らしいと思わされ、ほぼ一息に読み終えてしまった。
 それで、「切りとれ、あの祈る手を」という評論集(だろうか)とか、「九夏前夜」とかいう最初の小説集だとか、次に読んでみようかと思わされたのだった。
 しかし、この小説が、一万人を超える読者に向けて書かれているとは到底思えず、数千人の選ばれた読者の一員に連なることができたことを、望外の喜びとしたい。

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