
自治体学会のニュースレター、1997年11月の№68に載せたもの。
今夜は、前半を。
自治体学会 群馬高崎大会・全大会パネルディスカッション「響きあえ・都市と農山村から」
パネルディスカッションで、哲学者内山節氏と上原恵美代表運営委員の間に興味深い議論があった。
内山さんは、不思議に寡黙なひとだ。あたかもテレパシーで語りかけるような物静かさで語りかける。
かれは、広葉樹林を緑のダムとして大切にしようという言い方のなかに、自然を人間への効用のみから判断する、人間中心主義的な思想がひそんでいないかというようなことをおっしゃった。人間は、自然を全部、知ることはできるわけではない。理解できる範囲で大切にするということではダメなのではないか、そのメカニズムとか、効用とかを知らなくても。自然を大切にすることが必要なのではないかと。
すると、上原さんが、やや驚くくらいに即座に反応された。
人間にとって知るということはとても大切なことだ。わたしたちは自分たちの日常生活が自然環境にどんな影響をあたえているのか知らずにいた。滋賀県は現在、環境への取り組みを鋭意進めているが、これは、私たちが琵琶湖を知らずに汚してきたことを知って初めてできたことだ。
上原さんのおっしゃることはまさしくその通りである。
内山さんは、その後、自らの考えをあらためて明確に説明することはなさらなかった。
さて、古くから、知るという言葉は、同時にその対象を支配するという意味を含んでいた。しかし、今、哲学者・中村雄二郎が「パトスの知」(筑摩書房・1982年刊)で語るように、「私たち…は近代科学の分析的な知、機械論的自然観にもとづく知によって、事物や自然をひたすら対象化し、事物や自然の法則を知ってそれを支配しようとしてきた。…ところが…、現実や自然から人間は手きびしいしっぺい返しを受けることになった。」(4ページ)
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