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ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

石津ちひろ「ラブソング」(絵・植田真)理論社。

2013-06-10 21:03:05 | エッセイ
 石津ちひろさんは、絵本の翻訳も多数手掛けている詩人。「ラブソング」は、言葉遊びの要素もふんだんに盛り込まれた詩集。
 詩集冒頭の「ラブソング」

「ラジオをききながら
 ラムネをのんで
 ラズベリージャムをによう
 ラムレーズン・チーズをぬった
 ラスクサンドをつくって
 ライムギばたけへいこう
 そこで
 ラララ
 ララララ
 きみのために
 ラブソングをうたおう」

 全文である。これは「ラ」のうた。ラで始まる言葉を連ねて詩にした。言葉遊び。こんな詩は、わたしも書いてみたい。
 でも、ここまで潔く、ラで始まる言葉を連ねることはできないかもしれない。
 この言葉遊びは、とにかくラで始める言葉だったらなんでもいいと、テキトーに並べたわけではない。慎重に、丁寧に、選ばれ並べられ、ひとつの好ましい世界を作っている。この世界でだったら、私も一緒に遊んでみたい。
 50ページ目の「二十世紀」

「二十世紀というおおきなナシを
 みっつつづけてたべたことがある
 ひとつめ
 したたりおちるすいぶんのあまみを
 しみじみあじわいながらたべた
 ふたつめ
 舌にふれるせんいのつぶつぶを
 じっくりあじわいながらたべた
 みっつめ
 しゃりしゃりしたかみごこちを
 しっかりあじわいながらたべた

 二十世紀をいっぺんにみっつ
 たべられるかどうかという
 弟とのこどもじみた賭けに勝った
 わたしのこころには
 数十年たったいまも
 二十世紀みっつぶんの空洞が
 ひろがったままだ」

 これも全文。3つの大きな梨を続けて食べてしまう。本当のところは、3つめになれば、もう飽きていたに違いないが、この詩人は、それぞれに美味しかったと書く。もちろん、直接に「美味しい」などという言葉は使わない。使わないでも、梨の美味しさは十分に伝わる。そして、1個づつ食べていく経過に合わせて、味わいの違いをきちんと書き表す。
 同時に、3つも食べてしまうなどということは「弟とのこどもじみた賭け」であった。それはああ、なるほどと種明かしのようでもある。しかし、「二十世紀みっつぶんの空洞がひろがったまま」である「わたしのこころ」とはなんだろうか?
 この詩にはひとつも難しい言葉は使われていないし、子どもっぽいおふざけの詩のようでもある。でも、この詩は簡単な詩ではない。大きな謎が残る詩だ。3つも続けて食べて、飽きたとか、もう食べたくないとかひとつも書いていないところにも、リアリズムではない、フィクションの謎が仕掛けてある。「こころのなかの空洞」っていったいなんだろう?
 謎解きは、ここではする必要がない。読んだひとそれぞれが、遠い目をして考えてみる。深く、遠く考えてみるだけの価値がある詩だ。
 昨日、図書館で手にとった詩集を借り出して読んだ。有難い遭遇だった。

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