石津ちひろさんは、絵本の翻訳も多数手掛けている詩人。「ラブソング」は、言葉遊びの要素もふんだんに盛り込まれた詩集。
詩集冒頭の「ラブソング」
「ラジオをききながら
ラムネをのんで
ラズベリージャムをによう
ラムレーズン・チーズをぬった
ラスクサンドをつくって
ライムギばたけへいこう
そこで
ラララ
ララララ
きみのために
ラブソングをうたおう」
全文である。これは「ラ」のうた。ラで始まる言葉を連ねて詩にした。言葉遊び。こんな詩は、わたしも書いてみたい。
でも、ここまで潔く、ラで始まる言葉を連ねることはできないかもしれない。
この言葉遊びは、とにかくラで始める言葉だったらなんでもいいと、テキトーに並べたわけではない。慎重に、丁寧に、選ばれ並べられ、ひとつの好ましい世界を作っている。この世界でだったら、私も一緒に遊んでみたい。
50ページ目の「二十世紀」
「二十世紀というおおきなナシを
みっつつづけてたべたことがある
ひとつめ
したたりおちるすいぶんのあまみを
しみじみあじわいながらたべた
ふたつめ
舌にふれるせんいのつぶつぶを
じっくりあじわいながらたべた
みっつめ
しゃりしゃりしたかみごこちを
しっかりあじわいながらたべた
二十世紀をいっぺんにみっつ
たべられるかどうかという
弟とのこどもじみた賭けに勝った
わたしのこころには
数十年たったいまも
二十世紀みっつぶんの空洞が
ひろがったままだ」
これも全文。3つの大きな梨を続けて食べてしまう。本当のところは、3つめになれば、もう飽きていたに違いないが、この詩人は、それぞれに美味しかったと書く。もちろん、直接に「美味しい」などという言葉は使わない。使わないでも、梨の美味しさは十分に伝わる。そして、1個づつ食べていく経過に合わせて、味わいの違いをきちんと書き表す。
同時に、3つも食べてしまうなどということは「弟とのこどもじみた賭け」であった。それはああ、なるほどと種明かしのようでもある。しかし、「二十世紀みっつぶんの空洞がひろがったまま」である「わたしのこころ」とはなんだろうか?
この詩にはひとつも難しい言葉は使われていないし、子どもっぽいおふざけの詩のようでもある。でも、この詩は簡単な詩ではない。大きな謎が残る詩だ。3つも続けて食べて、飽きたとか、もう食べたくないとかひとつも書いていないところにも、リアリズムではない、フィクションの謎が仕掛けてある。「こころのなかの空洞」っていったいなんだろう?
謎解きは、ここではする必要がない。読んだひとそれぞれが、遠い目をして考えてみる。深く、遠く考えてみるだけの価値がある詩だ。
昨日、図書館で手にとった詩集を借り出して読んだ。有難い遭遇だった。
詩集冒頭の「ラブソング」
「ラジオをききながら
ラムネをのんで
ラズベリージャムをによう
ラムレーズン・チーズをぬった
ラスクサンドをつくって
ライムギばたけへいこう
そこで
ラララ
ララララ
きみのために
ラブソングをうたおう」
全文である。これは「ラ」のうた。ラで始まる言葉を連ねて詩にした。言葉遊び。こんな詩は、わたしも書いてみたい。
でも、ここまで潔く、ラで始まる言葉を連ねることはできないかもしれない。
この言葉遊びは、とにかくラで始める言葉だったらなんでもいいと、テキトーに並べたわけではない。慎重に、丁寧に、選ばれ並べられ、ひとつの好ましい世界を作っている。この世界でだったら、私も一緒に遊んでみたい。
50ページ目の「二十世紀」
「二十世紀というおおきなナシを
みっつつづけてたべたことがある
ひとつめ
したたりおちるすいぶんのあまみを
しみじみあじわいながらたべた
ふたつめ
舌にふれるせんいのつぶつぶを
じっくりあじわいながらたべた
みっつめ
しゃりしゃりしたかみごこちを
しっかりあじわいながらたべた
二十世紀をいっぺんにみっつ
たべられるかどうかという
弟とのこどもじみた賭けに勝った
わたしのこころには
数十年たったいまも
二十世紀みっつぶんの空洞が
ひろがったままだ」
これも全文。3つの大きな梨を続けて食べてしまう。本当のところは、3つめになれば、もう飽きていたに違いないが、この詩人は、それぞれに美味しかったと書く。もちろん、直接に「美味しい」などという言葉は使わない。使わないでも、梨の美味しさは十分に伝わる。そして、1個づつ食べていく経過に合わせて、味わいの違いをきちんと書き表す。
同時に、3つも食べてしまうなどということは「弟とのこどもじみた賭け」であった。それはああ、なるほどと種明かしのようでもある。しかし、「二十世紀みっつぶんの空洞がひろがったまま」である「わたしのこころ」とはなんだろうか?
この詩にはひとつも難しい言葉は使われていないし、子どもっぽいおふざけの詩のようでもある。でも、この詩は簡単な詩ではない。大きな謎が残る詩だ。3つも続けて食べて、飽きたとか、もう食べたくないとかひとつも書いていないところにも、リアリズムではない、フィクションの謎が仕掛けてある。「こころのなかの空洞」っていったいなんだろう?
謎解きは、ここではする必要がない。読んだひとそれぞれが、遠い目をして考えてみる。深く、遠く考えてみるだけの価値がある詩だ。
昨日、図書館で手にとった詩集を借り出して読んだ。有難い遭遇だった。
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