先日、ツイッターで、いま、最高の作家は高橋源一郎であるとだれか言っていたが、全く同感である。最近では「恋する原発」、「さよならクリストファー・ロビン」。高橋は「さようならギャングたち」以来、読み続けているが、震災以降の現在、飛ばしている。最高峰の作家であるとぼくは思う。
なんで、こんなことを書くかというと、小説家、作家としてだれかという一方、思想家としてはだれか、と言ったとき、いま、真っ先に名前があがるのが、この大澤真幸であると思うからだ。最高峰とは、まだ50歳代であるから、早いとしても、いちばん、脂の乗っているという言い方であれば、うなづいてもらえるだろう。
このところ、新書も含めて、相当の数の書籍を続けざまに出している。出版の点数のことだけでも、その証といってよいが、書いていること、論じている内容である。
「本書は、ミシェル・フーコーが提起した『生権力』という概念に注目した現代社会論である。生権力が、フーコーがもともと関心を向けた規律訓練型のものから。管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥールーズをはじめとする多くの論者によって、かねてより指摘されてきた。」(まえがき9ページ)
うーん、いいねえ。
生権力とか規律訓練型、管理型とかのことばの意味については、この本とか、フーコーの入門書でも読んでもらえば書いてあるが、少なくとも言えることは、分かりやすくない、ということだ。この文章を読んで、何が書いてあるか分かるひとは、いったい、日本に何人いるだろうか?
でも、文章というものは、分かりやすければいいというものではない。
現代社会を読み解くのに、多くの人に分かりやすい理路だけでは用をなさない、ということがある。
この本は、分かりやすくなく、簡単には咀嚼できず、一度読んだだけでは消化不良である。しかし、現代の社会を読み解くのにとても重要なことが書いてある。
冒頭から、登場する人名を順に上げていけば、フーコー、ドゥールーズ、東浩紀、アリストテレス、アガンペン、ベンサム、カフカ、ヨーゼフ・K、デリダ、18ページまででこんなところ。
同じ範囲で、おもな言葉、術語などをあげていけば、生権力、規律訓練型、管理型、個人情報、監視カメラ、プライヴァシー、偶有性、誤配の可能性、ビオスとソーエー、政治的動物、完全な共同体、政治、国家(ポリス)、オイコス、生政治、福祉国家、人口、監獄(パノプティコン)、監視塔、隠喩的、学校、法の門。
遠くギリシャから、宗教、資本主義、精神分析、哲学はいうまでもないが、広く深く考察されていく。現在の日本の思想家も、上の東浩紀だけでなく、柄谷行人も参照されている。
さて、ぼく自身はこの本に何が書いてあるのか、とにかく、もう一度読み返してみたいとは思いながら読んでいたが、最後の補論「パレーシアとその裏側」まで読みすすめて、はあ、なるほど、と得心したところがあった。
ちなみに「パレーシアとは、率直な語り、真実を語ること、真理への勇気等を意味するギリシア語である。」(243ページ)
この補論には、まず、デカルト、映画「マトリクス」、ラカン、クリスティヴァ、ジジェク、デヴィッド・リンチ、映画「ブルー・ベルベット」、「ストレイト・ストーリー」、ソクラテス、柄谷行人、ハーバーマス、プラトン、ヘーゲル、「コロニアリズム」、アンダーソン、「フランス革命」、「アメリカの独立革命」、「ナショナリズム」などの人名、件名が登場する。
さて、その結論めいたところはたとえば次のようなところだ。
「われわれにとって最も重要な教訓は、次の点にある。権力の抵抗は、権力関係の外部からやってくるわけではないということ。これがヘーゲルの議論の要諦だ。抵抗のために、権力関係に外在する実体を必要とはしない。奴隷の抵抗は、ヘーゲルの弁証法においては、主人との関係そのものの内的な展開の中から生じてくるのだ。」(255ページ)
「フーコーを含め、人はどうしても、結果は、原因の内に含まれていることの展開なので、決して原因を乗り越えることがない、と考えがちである。だが、ときに結果は、原因を超え、原因そのものを否定に導くことがある。結果の原因に対する過剰こそ、『自由』の究極の根拠がある、とも言えるだろう。」(261ページ)
あ、そうそう、そんなことなんだろうな、と思う。(たぶん、これをよんだひとのほとんどは、なにが、そうそう、そんなこと、なんだろうかと訝しいままだとは思うが…)
で、大澤の本の末尾は、こういう文章である。
「その地点はいかなるものか?デカルト的な懐疑が『告白』に類する自己批判の試みだとすると、彼の『普遍的な懐疑』がその地点の容態を既に暗示している。それは、理性が狂気としての自己の本性を露わにせざるをえない場所である。」(262ページ)
理性は、狂気なのだと。ふむふむ、よろしき結末である。次の大澤の本を楽しみにしたいところだ。
なんで、こんなことを書くかというと、小説家、作家としてだれかという一方、思想家としてはだれか、と言ったとき、いま、真っ先に名前があがるのが、この大澤真幸であると思うからだ。最高峰とは、まだ50歳代であるから、早いとしても、いちばん、脂の乗っているという言い方であれば、うなづいてもらえるだろう。
このところ、新書も含めて、相当の数の書籍を続けざまに出している。出版の点数のことだけでも、その証といってよいが、書いていること、論じている内容である。
「本書は、ミシェル・フーコーが提起した『生権力』という概念に注目した現代社会論である。生権力が、フーコーがもともと関心を向けた規律訓練型のものから。管理型のものへと転換しつつあるということは、ドゥールーズをはじめとする多くの論者によって、かねてより指摘されてきた。」(まえがき9ページ)
うーん、いいねえ。
生権力とか規律訓練型、管理型とかのことばの意味については、この本とか、フーコーの入門書でも読んでもらえば書いてあるが、少なくとも言えることは、分かりやすくない、ということだ。この文章を読んで、何が書いてあるか分かるひとは、いったい、日本に何人いるだろうか?
でも、文章というものは、分かりやすければいいというものではない。
現代社会を読み解くのに、多くの人に分かりやすい理路だけでは用をなさない、ということがある。
この本は、分かりやすくなく、簡単には咀嚼できず、一度読んだだけでは消化不良である。しかし、現代の社会を読み解くのにとても重要なことが書いてある。
冒頭から、登場する人名を順に上げていけば、フーコー、ドゥールーズ、東浩紀、アリストテレス、アガンペン、ベンサム、カフカ、ヨーゼフ・K、デリダ、18ページまででこんなところ。
同じ範囲で、おもな言葉、術語などをあげていけば、生権力、規律訓練型、管理型、個人情報、監視カメラ、プライヴァシー、偶有性、誤配の可能性、ビオスとソーエー、政治的動物、完全な共同体、政治、国家(ポリス)、オイコス、生政治、福祉国家、人口、監獄(パノプティコン)、監視塔、隠喩的、学校、法の門。
遠くギリシャから、宗教、資本主義、精神分析、哲学はいうまでもないが、広く深く考察されていく。現在の日本の思想家も、上の東浩紀だけでなく、柄谷行人も参照されている。
さて、ぼく自身はこの本に何が書いてあるのか、とにかく、もう一度読み返してみたいとは思いながら読んでいたが、最後の補論「パレーシアとその裏側」まで読みすすめて、はあ、なるほど、と得心したところがあった。
ちなみに「パレーシアとは、率直な語り、真実を語ること、真理への勇気等を意味するギリシア語である。」(243ページ)
この補論には、まず、デカルト、映画「マトリクス」、ラカン、クリスティヴァ、ジジェク、デヴィッド・リンチ、映画「ブルー・ベルベット」、「ストレイト・ストーリー」、ソクラテス、柄谷行人、ハーバーマス、プラトン、ヘーゲル、「コロニアリズム」、アンダーソン、「フランス革命」、「アメリカの独立革命」、「ナショナリズム」などの人名、件名が登場する。
さて、その結論めいたところはたとえば次のようなところだ。
「われわれにとって最も重要な教訓は、次の点にある。権力の抵抗は、権力関係の外部からやってくるわけではないということ。これがヘーゲルの議論の要諦だ。抵抗のために、権力関係に外在する実体を必要とはしない。奴隷の抵抗は、ヘーゲルの弁証法においては、主人との関係そのものの内的な展開の中から生じてくるのだ。」(255ページ)
「フーコーを含め、人はどうしても、結果は、原因の内に含まれていることの展開なので、決して原因を乗り越えることがない、と考えがちである。だが、ときに結果は、原因を超え、原因そのものを否定に導くことがある。結果の原因に対する過剰こそ、『自由』の究極の根拠がある、とも言えるだろう。」(261ページ)
あ、そうそう、そんなことなんだろうな、と思う。(たぶん、これをよんだひとのほとんどは、なにが、そうそう、そんなこと、なんだろうかと訝しいままだとは思うが…)
で、大澤の本の末尾は、こういう文章である。
「その地点はいかなるものか?デカルト的な懐疑が『告白』に類する自己批判の試みだとすると、彼の『普遍的な懐疑』がその地点の容態を既に暗示している。それは、理性が狂気としての自己の本性を露わにせざるをえない場所である。」(262ページ)
理性は、狂気なのだと。ふむふむ、よろしき結末である。次の大澤の本を楽しみにしたいところだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます