ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

実存は本質に先立つ

2016-01-03 21:30:45 | エッセイ

 「実存は本質に先立つ」、これはサルトルが、「実存主義とは何か」、原題は「l’existaetialisme est un humanisme」(実存主義はヒューマニズムである)という講演の中で述べた言葉である。1945年の講演が1946年出版され、日本語には、昭和30年(1955年)に、人文書院から伊吹武彦による翻訳、手元にあるのは、昭和49年(1974年)改定重版である。私が生まれたのが、昭和31年(1956年)、1974年というと、18歳、大学に入った年だ。

 実際に買い求めたのは、4年生になった頃かその前か、どちらにしても、大学生である間であることに間違いはない。

 卒業論文が、サルトルを取り上げ、「生におけるフィクションについて」というものだった。サルトルとは言っても、原典に当たる力量もなく、人文書院版の「存在と無」、「想像力の問題」、そしてこの「実存主義とは何か」からの引用の貼り合わせでなんとか辻褄合わせたに過ぎないのだが。

 「実存は本質に先立つ」

 当時、この言葉を知らない大学生はもぐりだ、とまで言われたかどうかは定かではないが、サルトル、実存主義、この人名、この言葉が、大きな影響力を持っていたことは確かなことだ。

 本棚から持ち出してきた昔懐かしい人文書院の「実存主義とは何か」のページを手繰ってみると、冒頭近くにこの言葉が出てくる。

 

 「…実存主義者…に共通なことは、「実存は本質に先立つ」と考えていることである。」(13ページ)

 

 どういうことか。

 

 「たとえば、書物とかペーパー・ナイフのような。造られたある一つの物体を考えてみよう。この場合、この物体は、一つの概念を頭にえがいた職人によって造られたものである。…(中略)…この物体が何に役に立つかも知らずにペーパー・ナイフを造る人を考えることはできないのである。ゆえに、ペーパー・ナイフにかんしては、本質――すなわちペーパー・ナイフを製造し、ペーパー・ナイフを定義しうるための製法や性質の全体――は、実存に先立つといえる。」(13ページ)

 

 人間が作った道具には本質がある。何かの役に立つために、道具は造られる。道具には、明らかな目的がある。ペーパー・ナイフであれば、紙を切るため。包丁は、食材を切るため。床屋の鋏は、髪を切るため。お箸は、ものを食べるため。お椀は、ご飯を盛って食べるため。

 言葉をひっくり返して「本質が実存に先立つ」というと、これはプラトンのイデア論になる。

 ここを説明し始めると面倒なことになるので省略する。

 また、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教的にいうと、人間は神様が作った被造物であり、まず神様の心の中に人間の本質があって、それをもとに実際の人間の祖であるアダムが創造されたとも言えて、ここでも「本質が実存に先立つ」と言えることになる。

 ここらも厳密な議論などと言い始めるときりがないので省略するが、これらの場合は、人間の本質があらかじめ想定されていることになる。

 人間の本質があらかじめ想定されている。

 これは言い換えれば、あるべき人間の姿が、すでにどこかで決まっているということ。

 つまり、人間、かくあるべきという理想がすでに決まっているということ。

 つまり、人間の倫理、道徳がすでに決まったものとしてあるということ。

 そういう倫理、道徳、決まり事、ルールは、われわれ人間が新たに作ることはできなくて、たとえば、神様か誰かがずっと昔に決めてしまっていて、われわれはそれを勉強したり、発見したり、思い出したりすることしかできない、ということ。

 私たち人間は、自分で自分のあり方を決めることはできなくて、昔々から決まり切っていることを学んだり発見したりするほかないこと。ルールは、どこかでだれかがすでに決めてしまっており、自分たちで決めたり、あるいは、勝手に変えたりはできないこと。

 「本質は実存に先立つ」と言ってしまうと、そういうことになってしまう、ということになる。

 そんなことでは、実際生きていくうえで不自由この上ない。

 そんながんじがらめの世界で生きていたいなどとは思わない。

 実際のところ、ルールは、その都度その都度決めていいことだし、実際にわれわれは、その場に適したルールを作ることができるし、作っている。

 われわれは、その場その場で、そこに適したルールを作ってもいい。そこには、あらかじめ決められたルールなどない。たまたま誰かが作ったルールはあるかもしれないが、必ずしもそれに縛られる必要はない。

 言い方を変えれば、世界の理想的な形のヴィジョンは、ない。だれかが想像したたくさんのヴィジョンはあるだろうが、唯一の、理想的な正しいヴィジョンなどはない。

 そんなものは発見する必要はない。

 唯一の正しいヴィジョンを発見しないうちは、人間の世界の中で発言権がない、などとは思わなくてもいい。

 「実存は本質に先立つ」とは、そういうことだ。

 人間が使う道具に関しては、「本質が実存に先立つ」。しかし、人間自体については「実存が本質に先立つ」。

 「実存が本質に先立つ」という言葉を思い出して、なにかとても楽になることができた、ということを言っておきたいと思って、この文章を書き始めた。

 勉強して思索して、深淵で難解な真理を掴み取らないうちは、発言できない、みたいな思い込みから自由になることができた、この私でも、なにか発言していい、と思うことができた、というようなこと。

 書いて、それほど、うまく言い当てられた感覚がなく、また、迷路にさまよっている感が強いが、まあ、とりあえず、いったんは書き留めておくことにする。

 ただ、始めからなにも学ばなくてもいい、考えなくてもいい、本も読まなくていい、ということではない。深く学んだ先に、学ぶことも学ばないことも同じだ、みたいなところに達することが必要だ、というようなことも言っておきたい気がする。

 そして、この場所から、改めて、レヴィ・ストロースのサルトル批判も始まるということも留意しておきたい。

 私たちは、自由なのだけれども、自由ではない。われわれは自分で生まれたわけではないのだが、自分で生きていかなくてはならない。このあたりの解決不能な問題。そこに身をさらし続けていくこと。生きているとは、その解決不能な問題に身をさらし続けることに他ならないこと。しかし、私たちは発言できるし、行動できること。

 とまあ、こう書き続けていると、ひとつの回心にたどり着いたともいえるし、結局、解決不能だというところでぐるぐるとまわり続けているだけだともいえるし、ということで、まあ、今回も、ひとつのメモを書きました、というところで終わることになる。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿