現代詩手帖の12月号が届いて、開封し、何気なくぱっと開いたところが、秋亜綺羅さんの文章で、冒頭、斎藤絋二「挽歌、海に流れて」とある。あ、と思うと、私の文章が引用されている。
特集「展望 現代詩年鑑2014」のなかの一文、「好きか嫌いか。感じるか感じないか。」
「斎藤絋二…の『納棺師』という詩、…(中略)…気仙沼の詩人・千田基嗣が、自身のブログで辛辣に批評している。」と。
辛辣に書くつもりはなく書き始めたのだが、書き進むうち、辛辣と言われるのもやむを得ない内容になってしまったかもしれない。
被災地にも、詩を読む人間はいるんだ、とうことを言いたかった。被災地にいて、近い身内を失った人間がたくさんいる。そういう人々の中にも詩を読む人はいるんだよ、と言いたかったのだ。
ぼく自身は、弟が独り住まいする実家が1メートルほど水をかぶって半壊の扱いとはなったが、ごく近い身内に人的被害はなかった。しかし、もちろん、友人、知人のなかには、親を、子を、というひとびとがいる。少なからず、いる。
そういうひとびとが、この詩を読んでどう思うか。それを思わずにはいられなかった。
ぼくの書いたものを読んで、秋さんは、自身のフェイスブックで応答された。
秋さんは、「だけど、詩人は言葉遊びをしているんだよ。」とおっしゃる。それはまったくその通り。「問題は、…覚悟があったかということかもしれません。」このほぼ最後の言葉もまったくその通りだと思う。
ここで、この文章を読んだだけでは何のことかわからないに違いない。現代詩手帖12月号を買って読んでいただくのが一番なのだが、ぼくのブログの該当箇所を読んでもらえれば、内容は把握していただけるはずだ。
ぼくが書いた「挽歌、海に流れて」の書評の全文は以下にある。
http://blog.goo.ne.jp/moto-c/e/f9170b8e725c67211507e4a0d2e30bb5
秋さんが、フェイスブックで書かれたことは、秋亜綺羅さんのページの5月27日づけのところ。
https://www.facebook.com/mototsugu.chida#!/akira.aki.54?fref=ts&__rev=1024226
ま、今日はびっくりしました、というところ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます