ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

奥本大三郎 ランボーはなぜ詩を捨てたのか インターナショナル新書

2021-10-29 23:27:34 | エッセイ
 発行元は新潮社インターナショナル。
 奥本大三郎氏は、虫屋である。野山で虫を追うのみならず、書斎においてファーブル昆虫記の完訳を成し遂げた斯界の偉人である。というか、本業はフランス文学者である。埼玉大学名誉教授。ランボーの専門家。言うまでもなく、ハリウッド映画ではなく、フランスの天才詩人アルチュール・ランボーの方である。
 そして、何を隠そう、私の恩師である。埼玉大学教養学部フランス文学研究室において、1年間、週一回、アルチュール・ランボーの原典購読を親しくご指導いただいた。1976年、私が大学3年生の折である。当時は、先生は、まだ、横浜国大の助教授か講師でいらして、埼大には、その一コマのみお出でであった。私は、哲学思想専攻であったが、奥本先生のランボーと、また別の先生のボードレールを受講していた。
 ということで、私にとっては、奥本先生といえば、まず、ランボーなのである。
 その先生が、新書版で、久しぶりにランボーの解説書をものされた。

「本書では、若き日のランボーの生涯を紹介し、詩を新訳して注釈を付けた。特に最後の、最も難解とされる詩集「イリュミナシオン」の解釈に、筆者は力点を置いていると思っていただきたい。
 また大きな謎となっている、ランボーの詩の放棄についても、一つの回答を提出したつもりである。」(6ページ)

 ランボーは、天才詩人の名を冠されているが、驚くべきことに、二十歳で詩を放棄し、その後37歳でその生を閉じるまで、アフリカ大陸の貿易商として生きた。

「いずれにせよ、一五歳から二〇歳までの、たかだか五年間の詩人の物語なのである。」(6ページ)

 この5年間のランボーの詩作は、フランスの、いや、世界の詩に革命を起こした。
 当時のランボーの生きた姿は、現在の日本の、この書物の筆者の生につながり、その世代のひとびとの生につながり、大きな影響を与え、また、そこに続く私の人生にも影響を与えた。

【奥本先生と私 日本の60年代】

「普仏戦争とパリ・コミューンの混乱の時代、彼は、詩の世界に革命を起こそうとして文字どおり一身を犠牲にした。/筆者の世代で言うと、大学紛争の時代である。その大洪水が鎮まると、若者たちはヘルメットを脱ぎ、髪を切り髭を剃って、企業の戦士に変身した。」(6ページ)

 私が大学で過ごした時代は、学生運動はほぼほぼ終息していたが、私は、学生運動には遅れてきた、という思いを長い間くすぶらせていた。今も、その時期に形成されたメンタリティのまま生きてると言ってしまってもいい。そんな世代だ。
 そして、私も、ランボーに出会う。奥本先生の導きで。

「私などが学生の時代には、クラシック・ガルニエ版のシュザンヌ・ベルナールの注や、原文校訂に定評のある、プレイアド叢書(ガリマール出版社刊)の注が頼りであった。」(14ページ)

 私の本棚にも、まさしく奥本先生がテキストとして指定されたクラシック・ガルニエ版のランボー詩集がある。表紙の上部、左側に小さくOeuvres(作品集) 、中央に大きくRimbaud(ランボー)、そして、その下は大きく、若々しく愁いを帯びたランボーの肖像が描かれている。

「一九六五(昭和四〇)年と、古い話だが東京大学仏文科の井上究一郎先生のランボー購読の授業は、大きな教室に受講生が入りきれないほどの盛況であった。」(14ページ)

 1976(昭和51)年に、埼玉大学フランス文学研究室では、十人に満たない学生が、奥本大三郎先生を取り巻いて、クラシック・ガルニエ版のペーパーバックを手にして、大きなテーブルを囲んでいたわけである。もちろん、その中に、私がいた。
 しかし、私のランボーとの出会いには、当時としては致命的な欠陥があった、というべきである。

【小林秀雄、中原中也のランボー】

「かつての日本におけるランボーといえば、なんといっても小林秀雄の翻訳であった。確かに、訳文に文体があり、それにある種の詩情があるという点では、誰もこのべらんめえ口調の大批評家にはかなわない。そして小林の『ランボオ』を読んで、文学青年はみんな勝手に、自分がランボオになってしまったのであるが、現代の文学青年は、そんな感化とは無縁のようである。」(15ページ)

 ランボーといえば、なんと言っても小林秀雄であり、中原中也である。
 しかし、当時の私は、小林秀雄のランボーにも、中原中也のランボーにも、堀口大学のそれにも出会わずに、直接、奥本先生のランボー原典購読の教室に飛び込んでしまった。なんといううかつさであったことか。高校や中学の国語の教科書の詩を好んで読んでいたにしろ、自分で詩集を買って読むなどということは未経験であった。詩というよりは、大江健三郎など小説の方から入っていったのではあり、もちろん、ランボーもボードレールも名前は知っていた。私は先生のいう「現代の文学青年」の走りであったのかもしれない。
 毎週毎週、一単語、一単語、大修館書店のスタンダード仏和辞典を引きながら、時間をかけてなんとか読み進めたが、出来損ないのほとんど落第生であった。出席はしていたので、単位は、なんとかいただけた。

 で、小林秀雄のランボーである。

「小林秀雄は、「ランボーがいきなり自分を叩きのめした」と書く。

……その時、僕は、神田をぶらぶら歩いていた、と書いてもよい。向こうからやってきた見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかった。ある本屋の店頭で、偶然見つけたメルキュウル版の「地獄の季節」のみすぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかった。(「ランボオ」、『ランボオ詩集』創元ライブラリ所収)

…小林は、まさにべらんめえ調の魅力ある文体でランボーについて書き、『地獄の一季節』を訳した。」(24ページ)

 そして、中原中也のランボー。

「中原中也は、小林の友達の富永太郎に、フランス語の存在を教えられて、アテネ・フランセに通い、また東京外国語学校(現在の東京外国語大学)専修科仏語部に入学して一生懸命勉強したようである。それでも訳語に苦労した形跡が見える。
 「中也は自らの詩人としての嗅覚を頼りにランボオの詩を読み解き、無手勝流に見事なまでの中也節で訳してみせた」と宇佐美斉氏の解説文からの引用であるが、中原中也訳『ランボオ詩集』のカバーの袖にある。「無手勝流に」、「中也節」、いずれも言い得て妙である。中也は、

 季節(とき)が流れる 城塞(おしろ)が見える、
 無疵な魂(もの)なぞ何処にあらう
 (中原中也訳「幸福」、『ランボオ詩集』(岩波文庫所収)

と、中也自身の詩を読んでいる読者の心に沁み入るような訳を残している。つい、その後に、

 あゝ、おまへはなにをして来たのだと……
 吹き来る風が私に云ふ
(「帰郷」『山羊の歌』、『中原中也詩集』岩波文庫所収)

と、中也自身の詩を続けたくなる」(27ページ)

 というようなことで、

「小林、中原に心酔する若者が、空き地に草が伸びるようにはびこった。」(28ページ)

わけである。私は、そのはびこった連中の外延で、なんとなくカッコいいなと、不定型な憧れをいだいてわけもわからず飛び込んでいった。

「「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすはあまりに遠し」と萩原朔太郎が謳ったように、日本とフランスの距離はあまりに遠かった。」(27ページ)

 日本の若者にとって、フランスはあこがれの国であった。いまでも、特にファッションに興味のある若者たちにとってはそうだろうが、当時はなおさらであった。しかも、今よりももっと遠かった。しかし、時代は変転する。

「やがて時間が経ち、実用語学の必要性というようなことが教育の現場で叫ばれるようになった。…三畳の下宿で、辞書を引き引き原書を睨んで暗号解読のようにして作品を読む、ということはしないでも、あちらで、お買い物かたがた語学研修、という洒落たことになったりした。大学紛争が花火のように終息する頃、文学青年の数が激減した。…大学の仏文科に学生が来なくなり、仏文学担当の教師が停年になると、後が不補充、つまり誰も後任を雇ってくれないことになった。…そして気がついたら誰もいなくなってしまったのである。」(29ページ)

 ここらの後任不補充の話は、先生の小説『奥山准教授のトマト大学太平記』(幻戯書房)に詳しい。もちろん、「トマト大学」とは、荒川近くの田園をつぶして造成建築した埼玉大学に似ている大学である。
 しかし、旧時代の「辞書を引き引き原書を睨んで暗号解読のようにして作品を読む」というのは、まさしく私の姿である。私のアパートは3畳ではなかったので、ここで描写されているのは、残念ながら私自身ではないわけであるが。

【初期の傑作「感覚(サンサシオン)」】
 この本に紹介されているランボーの詩の、先生の翻訳からいくつか紹介してみる。
 初期の作品、「感覚(サンサシオン)」について、

「メロディーをつけられて、ギターの伴奏などでYouTubeに一番よく挙げられているのは、この曲と『我が放浪』である。」(57ページ)

「夏の青い夕まぐれ、僕は野径(のみち)を歩くんだ。
 麦がちくちくする中を、短い草を踏みにじり、
 夢見心地でずんずんと、そぞろ歩きの爽やかさ。
 帽子を被らぬ髪の毛を、風がさらさら、なびかせる。」(第1連のみ 56ページ)

 メロディーをつけて、ギターの伴奏で歌っている、というのも、実は私のことである。こんなことをするのは、私の独創、と思っていたが、世の中、そういう人も多いということか。やれやれ。しかし、久しぶりに、ケースからギターを取り出して、弾き語りの練習して、ユーチューブにアップしようか。(乞うご期待。)
 私は、自分なりに以下のように訳して歌っている。奥本先生のご指導の賜物である。賜物となりえているかどうかは別にして。言葉をメロディに乗るように整理している。

青い夏の夕暮れ
小径伝いに
麦に刺されながら
草踏みに行く
夢見ながらその冷たさを
足もとに感じ
帽子のないこの頭
吹く風にさらし   (以下略)

(このブログに、詩だけは掲載している。
歌詞 感覚 Sensation  A.Rimbaud - 湾 (goo.ne.jp) )

【「谷間に眠る」 美しい人間の静物画】
 著者が、「谷間に眠る一人の若い兵士を描写したもので、ランボーの作品の中でも最も親しみやすい」と評している作品が、「谷間に眠る」。「日の光と、旺盛な植物の生命力の中、静かに横たわっている兵隊、これこそ、見事な人間の静物画である。」(71ページ)

「緑したたる谷間の中 ぽっかり空いた小さな空間。せせらぎがさらさら
歌い、キラキラ激しく草の葉叩く、銀色の、水の
襤褸屑、高く聳える山の陽が、そこに
ぎらりと照りつける、光に泡立つ小さな谷間。

年若い兵士一人、口を開き、帽子も被らず
首筋は涼しいクレッソンの茂みに埋もれて
眠っている。蒼白い顔をして、緑の褥に。
高い空には薄い雲、そこに光が降り注ぐ」(第2連まで 73ページ)

 私は、この詩は、レイモンド・チャンドラー原作の映画『ロング・グッドバイ』のラストシーンのモチーフになったものと思い込んでいた。高名な画家が、この詩をもとに絵を描き、それを、映画の監督が実写化したと。しかしそれは、私の勘違いであった。
 たしか、その絵が載っていたはずと、私の本棚の、ずいぶんと古びたクラシック・ガルニエ版ランボー詩集を、ぱらぱらとめくってみたところ、確かに白黒の図版が掲載されていた。そして、それは、19世紀イギリスの画家ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」であった。ランボーも詩「オフィーリア」を書いている。これは、どちらもシェイクスピアの「ハムレット」の、あの美しく悲しいオフィーリアである。
 映画は、ミレーの絵画の引用であり、直接にはランボーとかかわりがないというべきだろう。私の勘違いに他ならない。しかし、あの映像の美しさと、この詩「谷間に眠る」の描写はたしかにつながっていると思える。

【「忘我の船」か「酔いどれ船」か】
 著者が、ランボーの韻文詩の傑作として挙げるのは、「Le Bateau Ivre 忘我の船」である。「Bateau が「船」で、ivreが「酔った」、ということ。」(110ページ)上田敏は酔ひどれ船、小林秀雄は「酩酊船」と訳した。他に「酔っ払った船」、「酔い痴れた船」なども列記されている。

「いずれの訳し方も、表題だけ見れば、どちらかといえばぐでんぐでんに酔った感じだが、しかし、主語Je《自分》が酔っているのは、酒に、ではない。あえて言えば、詩に酔っている、というか、詩のために気持ちが高揚しているのである。
従って、詩に我を忘れた、「忘我の船」と訳してあながち間違いではあるまい。あんまり響きはよくないが――」(110ページ)

 vogaで漕いだとか漕ぐとかいう動詞があり、船の関係する言葉の語呂合わせともなるというのだが…
 ふうむ…
 ご自分で、あんまり響きはよくない、ともおっしゃっている。
 著者の訳は、「忘我の船」と題して、

「無感動の川を流れ下っている間に」(111ページ)

と始まる。
 たとえば、詩人粟津則雄は新潮社の世界詩人全集「ランボー詩集」で、「酔いどれ船」と題して、

「おれが非情の大河をくだっていたとき」

と書き出している。
 こちらの方が、しっくりくる…
 ふむ。
 この書物における先生の訳は、序章を読むと、「なんとか読みやすい日本語」、「口調のよい翻訳」、「わかりやすくなった」というところに重点があり、「詩の背景についても解説を加え」つつ紹介を行ったということである。
詩語としての諧調を、ということではなく、ひとびとをランボーという目くるめく世界へ導き入れる灯台の役割を優先した、ということなのだろうと思う。ここから、実は意味としては不正確な、小林秀雄だったり中原中也だったりのランボーに踏み入り迷い込んでいく、というのが、正しい本書の読み方、ということになるのだろうと思う。

【母音の色の発明 「永遠」の太陽と海】
 ランボーはなぜ詩を捨てたのかという謎への回答、ヴェルレーヌとの出会い、とか事件とか、散文詩『地獄の一季節』、「イリュミナシオン」とか、あるいは「言葉の錬金術」とか「見者の」などという言葉の読解などについては、書物を参照していただきたい。
 そうそう、『地獄の一季節』の詩「錯乱Ⅱ 言葉の錬金術」中の有名な一節も取り上げられている。ランボーが、母音の色を発明した、のだという。

「僕は母音の色を発明した!―A(アー)は黒、E(ウー)は白、I(イー)
 は赤、O(オー)は青、U(ユー)は緑だ。…」(177ページ)

 聴覚と視覚、また、意味と形態の融合である。
 あとがきには、詩「永遠」の一節が引用されている。

Elle est retrouvée !
Quoi ? l’éternité.
C’est la mer mêlée
Au soleil.

 先生の訳は、

「見つかったぞ!
 何が? 永遠が。
 太陽に溶けた
 海だ。」

 これは、mêlée(溶けた)のところが、allée(行ってしまった)という異文もあって、私は、どちらかというとそちらが好きでなじんでいる。(終わりの行は、avec le soleilとなる。)

「とうとう見つけたよ
 何を? 永遠を
 それは
 太陽と一緒に行ってしまった
 海」

 誰かの翻訳の真似かもしれないが、私は(昔々の奥本先生のご指導を頼りに)こんなふうに訳している。(原語が受動態であるのは承知だが、ここはなぜか能動態で「見つけたよ」と言いたい。そんなに能動を強調したいということではなくて、しかし、永遠というものをこちらから探求する心持ちの果てに、そちらから開示された、というようなニュアンスが出てくる、というふうに思える。)

 気仙沼大島の田中浜から眺望する太平洋の水平線の太陽は、朝陽であって、「永遠」の太陽は、むしろ夕陽だとは思うが、波に光の道が映り込んでいる光景は、気仙沼の人間にとって、永遠の美しさそのものというべきなのだろう、と思う。




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