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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

月刊地方自治研修 2015年8月号 特集松下圭一、〈自治〉へのまなざし

2015-08-24 23:44:55 | エッセイ

 松下圭一氏が亡くなった。

 私は、自治体職員で、地方自治に関わり続けているのは言うまでもないことだが、地方自治ということについて関心も持ちつづけてきた。地方自治論について、ということだな。

 だから、松下圭一という政治学者は偉大である、巨大な先達であるということは、これも、言うまでもないことである。

 しかし、いま、改めて、彼は偉大な、巨大な学者であり、思想家であった、と言い直すべきなのではないか、と思い始めている。

 つまり、政治学とか、地方自治論とか、そういう分野の中での、という限定をつけずに、現在の日本を創った思想家のひとりとして数えるべき人物なのだろうと。あるいは、むしろ、これからの日本を創っていくうえで最も重要な思想家であると。

 大塚信一は、元岩波書店の編集者、社長で、今、手元に、彼の最新の著作である「松下圭一 日本を変える 市民自治と分権の思想」(トランスビュー)がある。これは、昨年11月の発行で、松下本人の「私の仕事」という一文も収められている。この本については、これから読んで、改めて紹介したいところである。

 大塚は、これまで、同様の書物を、哲学者・中村雄二郎と文化人類学者・山口昌男について書いている。どれも、相当に分厚いものだ。そのシリーズの3冊目が松下圭一だということだ。

 なるほど。

 さて、地方自治職員研修の特集は、以下の5つの論考からなる。

 辻山幸宣「松下圭一と市民社会」、今井照「松下圭一と自治体改革」、大矢野修「松下圭一の方法・仕事・思考 「革新自治体」「文化行政」を事例に」、提中富和「(実務への視点~政策法務)松下理論は法施行大変革の思想」、肥沼位昌「(実務への視点~政策財務)政策のための技術としての政策財務」。

 辻山氏が訃報を聞いたのは、上記の大塚信一の「分厚い本を少しづつ読み始めたとき」であったという。「松下圭一の世界はほぼこの作品で網羅されていると思われる」とのことだが、定価3600円の分厚い本なので、安易には、ということにもなるが、自治体職員として読むべき本のひとつであることは間違いないだろう。

 

 「松下圭一作品の多くは「市民」を起点においている。『ロック「市民政府論」を読む』はあまりにも有名だが、2014年に上梓された岩波現代文庫版のあとがきで、彼の最初の著作『市民政治理論の形成』(岩波書店、1959年)でcivil government の訳語として「市民政府」を造語したと述べている。」(辻山 14ページ)

 

 国家から始めるのでなく、市民から始めるのだと。

 

 「各地に「市民主権」を謳い、市民がつくる自治政府の政策・組織公準を基本条例で定める、一種の自治体憲法づくりが広がっている。これに危機感をもった自民党が「チョト待て!!“自治基本条例”」という政策パンフレットを作ったが、そこでやり玉に挙がったのが松下理論であった。いわく「『自治基本条例』はもともと1970年代、学生運動が盛んなころ法政大学の松下圭一教授が提唱しました。(中略)その理論とは、国家の概念を否定し…(後略)」(同 16ページ)

 

 いわゆる保守的な論陣を張る人々からみたとき、松下圭一こそは、諸悪の根源と見えているのかもしれない。

 

 これも、造語のことになるが、今井照氏も、「「自治体改革」という言葉は1960年に松下さん自身が造語した」と紹介している。松下自身の言葉を引いて、「当時は労働運動や政治運動などに「自治体闘争」という言葉しかなかったので、「造語せざるをえなかった」という」と。

 

 「この社会、この世界、この国家のあり方を転換させることが大きな主題であって、「自治体改革」はそのひとつの手段として位置づけられていたように思う。その主体としての「市民の発見」と、そのステージとしての「自治体の発見」が60年代前半にあり、それが「市民自治の憲法理論」(岩波新書、1975年)で定式化され、「政策型思考と政治」(東京大学出版会、1991年)で確立されたと言ってよいだろう。この時期からの著述は、そのほとんどが自治体に関係するものに傾いていく。松下さんは自らのイメージを実現するために積極的に自治体関係者にコミットし始めたのである。」(今井 18ページ)

 

 いま、この国家の在り方が大きく問われている、このとき、松下圭一こそ、最も重要な思想家なのかもしれない。あるいは、最も重要な思想家の位置に浮かび上がってきた、ということかもしれない。松下圭一の唱えてきた「転換」がまさしく、いま、実現しようとしているのかもしれない。自治体が変わる、というだけでなく、社会、世界、国家が変わろうとしている、と言ってもいいのかもしれない。

 

 「松下さんの「市民」を読み解いていくと、吉本隆明の言う「大衆の原像」が想起される。松下さん自身も「私とほぼ同世代の『心情性』の強い吉本隆明」と書いている。このふたりはお互いを意識しつつ、決して相互の理念を相容れない関係でもあるが、改めて考えてみると、たとえば「都市型社会」と「消費社会」という概念が近似していることに気づく。次のステップへの対応については方向性を異にするものの、歴史的な現状認識は案外近かったのではないか。」(同 19ページ)

 

 さて、もういちど、辻山氏の論考から、ひとつのエピソードを引く。

 

 「私は、松下圭一本人に向ってつぎのような問いかけを発した。「先生が『思想』の論文で現代的『市民』の登場を書いてからすでに40年がたちますが、いったいいま、どれくらいの数の『市民』がいるのでしょうね?」と。読者諸君はいま、松下の大声を予想して思わず首を縮めたりしたであろう。/「つじやま~、おまえは何を言っているんだ、『市民』はいるんじゃない、なるんだ」。これが松下圭一の返答であった。」(16ページ)

 

 民主主義は、既に十分に実現している、ということは決してなく、常に理想として求められるべきものの位置にとどまるという。「自治」とか、「地方分権」もそうなのだろう。市民とは、そう「である」ものではなく、常にそうなろうと「する」ものなのだろう。この時点で、あらためてわれわれも「市民」になろうとすべきなのだろう。「市民」であるとかないとかよりも、松下の言うような「市民」としての振る舞いをする、ということが肝要なのだろう。

 ところで、この「地方自治職員研修」であるが、冒頭には鞆の津ミュージアム・キュレーター櫛野展正氏のこと、また、議会基本条例のことや、墨田区ひきふね図書館パートナーズのことなど、取り上げられている。

 先日、ぎょうせいの「ガバナンス」を千葉編集長からいただいて、ひさしぶりに読んだけれども、自治体職員は、こういう専門誌は、少なくとも一種は購読しておくべきものと思う。わたしは、もはや定年も近いしとか、産業カウンセラーのほうとか、図書館のほうが、とかで、一昨年あたりに止めてしまったのだが、やはり、読んでみると面白いし、ためにもなる。必要な、あるいは、必要になりそうな情報が随時得られる。

 「地方自治職員研修」には、わたしも何度か書かせてもらっているし、ということではもちろん、ない。


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