われわれ気仙沼の人間にとっては、熊谷達也氏の仙河海シリーズは、文学作品として今世紀最大の傑作と言い切ってしまって過言ではない。あえて、言ってしまうけれども。
その最新作である。
今回の主たる舞台は、東京。仙河海ではない。いや、登場するシーンは、過半が東京であるが、最初から最後まで、登場人物の意識を占有している主たる舞台は、東北地方三陸沿岸の小都市・仙河海で変わりがないと言うべきだろう。
「未曽有の大地震はもちろん、東京も揺るがした。交通網が麻痺し、歩道を埋めて歩み続ける人また人――。苦悩する女流作家と女性編集者は、喪に服しているかのような東京から、被災地へと向かった。」
帯の表に記される言葉である。
揺らぐ街は、仙河海であり、同時に東京である。
この小説では、その双方が、主たる舞台である、と言うべきだろう。言ってみれば二つの焦点をもつ、楕円形の小説。
「東北の小さな港町・仙河海市を舞台にした作品を発表し続ける著者が描く、東京から見た3.11以後。」
と、続いて帯に記されている。
裏を返すと、この作品の主人公である女性編集者山下亜依子が、編集長から「仙河海市出身の作家・武山洋嗣に原稿を依頼できないかと持ちかけられる。」とある。
亜依子と武山と、女流作家桜城葵の3人を軸に、小説は進んでいく。
編集者と作家。
かれらが、どういうふうに小説を作りあげていくのか。劇中劇のように、小説内小説について描く。
武山の複数の小説、桜城の小説、そこにまつわる編集者の行動。
被災地出身の武山、首都圏で生まれ育った桜木、被災地とある関わりのある亜依子。
この小説は、小説を書くことについての小説である。書くこと、そして小説をつくることについての小説。
そういう意味では、メタな小説である。小説とは何かを問いかける小説。
哲学的な、学問としての文学的な小説。
しかし、小難しい学術語が出てくるわけではない。文脈がたどれないような曲がりくねった論理が出てくるわけでもない。
編集者や作家や、あるいは、生活者が登場し、考え、思い、行動し、というところを丹念に描いていく、とても分かりやすい、ごく普通に流れを追っていける小説である。
それにしても、熊谷達也は、端正な、清潔な小説を書く。
この作品も、まぎれもなく端正で清潔である。
(このあたり、直前に読んだ佐々木中の評論や、山田詠美の短編集との対比はもちろん意識している。それぞれがそれぞれの持ち味で、優れた作家たちである。私にとって珠玉であり続ける作家たちである。)
作品の終わり近く、武山洋嗣と桜城葵と山下亜依子と3人で、小説論を交わすシーンがある。言うまでもなく、小難しい単語や言い回しはひとつも出てこないが、これは、優れた小説論、震災文学論である。そんな中に
「武山くん、見かけはぼうっとしているようで、ずいぶんいろいろなことを考えているのね」
感じ入ったように、しかし、少々失礼な言い方をした葵に、
「毎日、海を眺めながらぼうっとしているのが仕事の半分みたいなものですから――」(298ページ)
と、武山が、苦笑しながら答えるシーンが出てくる。
小説家・武山洋嗣のモデルは、メインには、熊谷達也氏ご本人と捉えるべきである。熊谷達也氏が、仙河海出身の武山と、首都圏出身の桜城と、さらにいえば、そこを取り持つ編集者の亜依子の3人に分裂して投影されている。
武山の描く小説の舞台は、「仙河崎市」だという。熊谷氏が、気仙沼をモデルに虚構の仙河海を舞台にした、劇中劇のように、さらにそれをモデルにした虚構の仙河崎を舞台とするという入り子細工の構造。熊谷氏が主たるモデルであることに間違いはない。
しかし、武山の造形には、何人かの気仙沼出身者、在住者の人物像の一部が活用されていることも間違いはないように思う。出版業界の関係者とか。
これまでも、もっと明らかにモデルとなった人物が特定できる登場人物もいて、その人間の魅力もまた、われわれ地元の読者にとっては楽しみ、喜びの部分となっている。(たとえば、某水産の筋骨たくましい社長とか。)
有難いことである。
もし、これからの日本に震災文学というジャンルが成り立つとすれば、いささか先走って、手放しで、後世、この小説こそ、そして仙河海シリーズ全体が、その金字塔と評価されるはずである、と語っておく。気仙沼の人間として、自信をもってそう断言しておく。
今の段階で、私がそう言わなければ、恐らくだれも、言いだすはずがない、と思う。恐らく、これが、現在の私の使命である。
あ、そうそう、ここ数日の気仙沼の話題との関連で言っておくと、熊谷達也氏の仙河海シリーズは、震災後「この街にやってきたアート」、文学的には最大最高最良のアートである、と言って間違いないということも言っておくべきことだ。
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