ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

古市憲寿・國分功一郎 構成・速水健朗「社会の抜け道」小学館

2013-11-08 01:05:35 | エッセイ

  このふたりは、最近よく読む学者。あと、萱野稔人かな。佐々木中も学者枠かな。

 さて、この本の内容については、古市による「まえがき」がもっとも良くまとめている。

 ということで、あとは、まえがきをどうぞ、と言えばすむ話でもあるが、それでは、ぼくがつまらない。

 「…こんな風に僕は、資本主義だとか、消費社会だとか、インターネット網だとか、世界規模の何かに囲まれて毎日を生きている。(中略)本書もまた、『世界規模の何か』について考えた本だ。民主主義の可能性を信じ、消費社会に否定的な哲学者の國分功一郎さんと、なんだかんだで資本主義に好意的で、デモとかを冷ややかに眺めてしまう僕が、グローバル資本主義の未来に対して激論を交わす、といった内容―ではない。」(4ページ)

 ではどういう内容か?

 「確かに國分さんは、この社会をいかに変えていくかということに関心がある。『世界規模の何か』を手放しで賞賛したりもしない。しかし、だからといって革命などによって社会を何もかも変えようとしているわけではない。むしろ毎日の生活の中で、いかにそれをよりよいものにつくり替えていけるかということに興味がある。(中略)テーマは、タイトルにもなっている『社会の抜け道』」(5ページ)

 「世界規模の何か」とは、現在の世界の在り様、社会の在り様であり、最近のジャーナリズムの表現で言えば「グローバルな資本主義」であるといっていいだろう。

 ここに書いてあることは、このところの、ぼくにとっての永遠のテーマともいうべき内容だ。ぼくのなかでの分裂したようなふたつの立場が、國分と古市のふたりに代表されている、とでもいうような。ぼく自身は、基本的には、國分功一郎寄りの立場といえるのだろうな。しかし、どっぷりと、お金なくしては生きていけないこの世界を生きていることは間違いない。

 「僕たちがこの本を通してずっと話してきたのって、社会は革命的には変わらないってことだと思うんです。何か新しいシステムを導入するとか、新しい政治家が登場するとか、新しい政治家が登場するとか、そんなことでは社会は変えられない。社会はちょっとづつしか変えられない。」(古市、245ページ)

 「そうだね。『新しい何か』への願望って、本当に解決しなきゃいけない細かな具体的問題から目をそむけるってことでもあるんだよね。あるとき、ガラッと社会が変わって、『ああ、よかった』って思いたいのだろうけれど、そんなことは起こるはずがない。その意味では、俺は反革命だな。」(國分、246ページ)

 ああ、実際、そういうことなんだろうと思う。改めて、國分功一郎のような哲学者から明確にそう宣言されると、いささかの喪失の感情とともに、納得させられてしまう。ぼくは、いま、保守であって、反革命だ。守らなければならないものは、安易に変えず、守っていかなければいけないと思っている。世の中、変えればいいというものではない。新しければいいというものではない。

 

 アメリカ資本の大型スーパーマーケット「コストコ」を廻って、商品を大量に梱包して売っているスタイルについて、語っているところがある。

 國分が「チーズでも豚肉でも大量にパックされているコストコのアメリカンな雰囲気は、単に遠足としてはおもしろかったんだけど、同じものを大量に買うのはイヤだな。(中略)毎日その日の夕方に、『今日はこれ食べるか』って買い物に行くのが自分には合っている。あらかじめ、あんなふうにどーんと買っちゃうのは冷凍庫が大きくないとダメだし。」(28ページ)というのに対して、古市が「コストコママ御用達の、冷凍室だけの冷凍庫があるから大丈夫です。(中略)生鮮食品を全国、各地方にあるスーパーに届けるって、すごい流通のためのコストやテクノロジーが必要なわけですよね。」アメリカでは、ニューヨークの中心部には生鮮食品を扱うスーパーがあるが、同じ市内のブルックリンまで行くと、もうないのだという。幸い今のところ、日本ではこういう問題が起こっていないが「これから急激に人口が減っていく地方では、莫大なコストをかけてまで流通網が維持できるかは怪しい。だとすると、こういうコストコ式の大量販売と、冷凍庫の普及が進んでいく可能性はあるんじゃないですか。」(28~29ページ)

 いなかでは、以前から、冷凍室しかない大きな冷凍庫はずいぶん普及している。うちにはないが。なにか、大きなマグロの塊とか、いつ食べるか知れないものがきっちりと詰め込まれていたりする。結局は食べずに捨ててしまうものが保管されている。コストコママ風に活用されているとは言い難い。

 さて、古市のいうように、コストコと冷凍庫というコンビは、いなかの生活の救世主だろうか。ひょっとすると、いわゆる限界集落などと呼ばれるような地域においては、確かにそうなるのかもしれない。ただねえ、どうなんだろう?

 たとえば、このあたりのスーパーマーケットでは、生鮮食品は、地元でとれたものも多いし、そんなに流通経費をかけているのかどうか。冷凍食品が、生鮮食品と比べて、そんなに流通経費が節約できるものかどうか。実感めいたものとして、よくわからないところだな。

 地産地消みたいな動きもそれなりには定着しているし、産地直売の店は方々にあり、繁盛している

 古市の議論に対して、國分がセイコーマートという北海道のみで展開するコンビニの例を出している。北海道ならではのやりかた。地元に根差した商い。

 

 「いま、『ビジネス』っていったときに、お金儲けだけをすればいいみたいな発想の人たちのほうが少数派になりつつあるわけでしょう。」(國分、91ページ)

 「社会貢献はいいけど、ビジネスはダメっていう価値観はそろそろ卒業したほうがいいと思う。」(國分、92ページ)

 「社会にいことと、ビジネスとしてお金を稼ぐことは両立しますよね。(中略)あらゆる貸家は程度の差はあれ、誰かの役には立っているはずなんです。」(古市、92ページ)

 これは、まさしく最近私の考えて、言っていること。また「小商いのすすめ」などで平川克美らも言っていることだと思う。気仙沼の友人、知人たち、あれこれの顔を思い浮かべたとき、利潤を得るために商売しているなどというひとはいない。もちろん、食っていくために商売しているんだよとは普通に言うわけだが、自らの仕事が、何ごとか地域のため、とはあからさまには言わないとしても、喜んでくれるお客さんのためにやっているんだよ、というのが、ごく当然のことだ。社会貢献は、ごく普通に仕事をしていることすべてに当てはまることのはずであって、ボランティアとか、一部のNPOに限定されるものでないことは言うまでもないことだ。

 

 國分が、保育所に、自らの子どもを預けた体験をもとに、次のようなことを言っている。

 「現場のリアリティを知らないといけないというのはいつだって真理だよ。それを知らないと、例えば、参入障壁をなくしてどんどん新しい担い手に入ってもらえば待機児童はいなくなるなんて話がまともな議論として扱われることになってしまう。現場を知っていたら、保育園が満たすべき条件をきちんと設定しておかないとどんどん劣悪な環境の園が増えるだけだってことはすぐに分かるんだ。」(國分、148ページ)

 「ただひとつだけいえるのは、競争原理の導入は絶対にダメだってこと。競争させればよくなるなんて、本当、バカのひとつ覚えの単純思考。(中略)人件費の値下げ競争しか起こらない。実際、既に一部の私立の保育園では、若い保育士の給料が低くて、ばたなた辞めていっちゃうっていう問題が深刻化しているなんて話もある。」(國分、148ページ)

 

 國分が、その著書「暇と退屈の倫理学」において、「『消費』と『浪費』を区別するべきだ」(國分、25ページ)と書いたと言っている。この消費と浪費の意味が、一般の受けとり方とは逆である。通常は、浪費が悪であって、消費は、少なくとも悪ではないし、経済成長を語る文脈では積極的に善とされる。しかし、國分は「消費社会は人を浪費家ならぬ消費者に仕立て上げ、退屈と消費の悪循環をつくり上げることで大量にものを売ってきたというのが大まかな俺の見立てです。」(25ページ)という。

 この本の中で、明確に「消費」と「浪費」の区別については明確に説明されない。「暇と退屈の倫理学」のほうを参照する必要がある。ぼくもこの本を読んで、その紹介を、今年の1月5日にツイートで連投しているが、そのときは、この論点は特に引いていなかった。詳しく知りたい方は、そちらを参照されたい。

 そうか、余談だが、このときには、まだ、まとめて書いて、ブログに投稿する、ということをはじめていなかったんだな。この連投もきっかけ、つまり、ツイッター1回ごとの長さでは不足だと感じたことが、ブログのほうに書き始めたきっかけになっているんだな。

 

 さて、あとがきは國分功一郎が書いている。

 「消費社会を消費社会として論じることは重要である。だが消費社会は実際には、ショッピングモール、広告、インターネット上のショッピングサイト…様々な現場の集積として存在している。その現場に行って、現場で考えることを面倒がってはならない。実際、現場を見ながら話をすることで、いくつもの水漏れ、抜け道が見えてきたのである。」(國分、253ページ)

 この本も、対談だから読みやすいが、なかなか面白い一冊だった。

 ところで、古市が一貫して「僕」を使っているのに対して、國分が「俺」を使っている。こういう対談で「俺」というのは珍しい。読んでいる途中で、どちらの発言か分かりやすい、ということは、メリットに違いはない。

 「私」というよりは、ざっくばらんでくだけた感じにはなる。生真面目な「私」でも、若い古市同様の「僕」でもなく、という選択として「俺」となるということかもしれない。

 しかし、どちらも「僕」というのも、いくらでも例があることだ。読んでいる中で、かすかな違和感はある。それが悪いということではない。実際に「俺」と発話していたということでもあるだろうし。

 そういえば、幻冬舎新書の「来るべき民主主義」という國分の本を注文していたつもりなのだが、まだ届かない。たぶん、注文した気になっていただけなんだろう。

 


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1 コメント

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こんにちは (立花)
2013-12-07 20:33:46
はじめまして。私も今日この本を読んでいました。消費社会の現場を前にしての、気鋭の論者の雑感、と言うことになるのでしょうか。ショッピングセンターはチープなものが多様に、というのが現代社会を象徴しているように思えます。このチープさ、というのがこの本の、隠れたテーマではないでしょうか。現代では、そんなに高級なものを求める必要はない。そんな中で、どれだけ合理的に、楽しく、また抜け道を見つけるかのように、本来とは別の用途や娯楽の発見などもあって、世界が変わってゆく、それがプチ・革命だ。こんな風に、読んでみました。
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