最近、なにかの雑誌で、ハンナ・アーレントの映画が岩波ホールで公開され、その帰り道の観客で、神保町の本屋で、彼女の著作が良く動いたと言う話題を目にしていた。このところの出版不況で、特にお堅い人文書はほとんど売れないみたいな文脈で、珍しく動いたと。
ふーん、その映画、見てみたいな、などとも思ったところだった。
というときに、職場の新刊コーナーでこの本を見つけた。借りて読もうとしたときに、すでに誰かに借りられていた。ほう、ハンナ・アーレントを読もうなどという奇特なひとがいるのだ、と少しうれしくなった。数日後には、返却されていたので、早速借りてきた。
ハンナ・アーレント。ドイツ生まれのユダヤ人哲学者。マルティン・ハイデガ―の弟子にして年若い愛人。この名前は、純粋な哲学分野というよりは、政治学、民主主義を語るという文脈で、しばしば目にしてきたように思う。1906年生まれ、75年没。
ちょうど私が大学生のときに亡くなっている。
当時から、名前は聞いていたように記憶するが、まだ学問として学ぶ対象には位置づけられていなかった。サルトルやメルロ・ポンティは、すでに対象になっていた時代だが、考えてみれば、まだ日は浅かったはずだ。
「パサージユ論」のワルター・ベンヤミンとは、ドイツのユダヤ人哲学者として、深い親交があった。私が、アーレントの名前をよく目にするようになったのは、ベンヤミンに関わる本の中でのことだったかもしれない。
しばしば、アーレントの名前を目にしながら、そのうちに「人間の条件」は読んでおくべき書物だとも認識しながら、なかなか、では次に読む、という位置にまでやって来ることがなかった。ユダヤ人の、第2次世界大戦前の、特殊な社会状況、特殊な政治状況のなかから書かれたルポルタージュのような類いの本であって、私の興味の本筋のところには来ない、みたいな思い込みがあったのかもしれない。
私には、私なりの「想像力の翼」を広げてくれるような本、をしか、読もうと思わない、というところがある。
ハンナ・アーレントの本は、なかなかそのエリアに入って来ることがなかった。
しかし、いま、ついに時は満ちてきた、のかもしれない。
この新書の著者、矢野久美子氏は、1964年生まれだから、私より、8歳年下。東京外国語大学大学院で学び、現在、フェリス女学院大学国際交流学部教授。思想史専攻とのこと。アーレントの人生と思索とを手際よく、新書版の分量にまとめていただいた。
アーレントは、美しく聡明な哲学者であり、ハイデガーとヤスパース(二十世紀ドイツ哲学の両巨頭)の愛弟子。ユダヤ人として、ナチス・ドイツ下での過酷な運命、二度の結婚、パリ、アメリカへの亡命、しかも、ハイデガーの、学問上の愛弟子であっただけではないらしい。(おっと、年若い愛人と、うえではっきりと書いてしまっている。)
これは現実のドラマというべきだし、映画にもなるのは当然のことだ。映画は、ぜひ、一回観てみたい。
実際に会ったことがあるわけでもないし、テレビで見たことがあるわけでもないが、想像の中で憧れを膨らませてしまう。
アーレントという人物自体の深い魅力があってこそのことだろうが、この新書自体も、ぐいぐいと読者を引っ張ってくれる力を有している。著者である矢野さんには感謝したい。
さ、まずは、「人間の条件」を読ませてもらおうと思う。
最後に、まえがきから引いておく。
「彼女は、人間は誰しも新参者あるいはよそ者としてこの世に生まれ、その世界を理解することによって、世界と和解すると考えた。」(まえがきページ)
「ハイデガーやヤスパースはもちろん、ヴァルター・ベンヤミン、エリック・フォッファーなど同時代の思想家たちとの稀有なかかわりあいのなかで展開されるアーレントの生き方そのものが、共感あるいは反感を生み出しながら、世界の人びとを魅了してきた。」(まえがきページ)
「共感」だけでなく「反感」を生み出しながら、というのが、大切なところだ。
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