ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

今井豪照 寺と役所 公共修行読本

2016-08-25 18:53:38 | エッセイ

 筆者は、名古屋市役所で、長く土木の専門職として勤務され、土木事務所長なども歴任され退職、並行して、禅、また、禅画を学ばれた方のようである。本名は、今井健(つよし)さんとおっしゃるが、如意庵、大海豪照とも号されると。

 

 冒頭、「はじめに」は、次のように書きだされる。

 

「本書は、仏教が、とりわけ「寺」が、地域社会との古くからのつながりの中に形成していた公共性に着目し、それによって今日の「役所」を捉え直すとともに、協働的な活動試行によって日常的な問題解決にアプローチしてきたことを著したものである。/文字どおり、仏教、寺、地域社会、公共性、役所、共同的な活動、日常的な問題解決が本書のキーワードだ。」

 

 仏教の専門書ではない。寺と役所、一見、何の関係もないものが、一冊の本の中で、併せて論じられている。

「この書を手にした人は驚くに違いない。『寺と役所』といい『公共修行読本』といい、本の題名としても異様だ。さらに、ジャンルも歴史、宗教、社会、行政、実用ハウツーなのか、どれともわからぬ本である。」

 

 と、謎かけから始まる書物である。

 序章は、こうはじまる。

 

「東日本大震災の一か月後、陸前高田市に入った。目の前に拡がる荒涼、そして津波で根こそぎにさらわれた圧殺感は、外から近づいた私の想像を絶するものであった。」(8ページ)

 

 山の中腹の神社に避難した人々の映像を見ながら、歴史的な寺社の役割、避難所のことに思いを馳せる。

 そして、

 

「避難所運営が安定してきたころ、そこに生活する人々が、今度はその場からの退去を余儀なくされる。災害で村落単位のコミュニテュイ―を根こそぎ失った人々が、辛うじて辿り着いた避難所という新しいコミュニティー。ここからも出なければならなくなった。避難所を離れたくない人たちが出てきた。行き場のない心情を抱えた人々…これは何か?…(中略)…そして『なんらかの区切り』のある場について考えていくことになる。/このように私は震災を契機に改めて、人間の居場所についてあれこれ考えるようになったのである。」(9ページ)

 

 で、実は、ページをめくると

 

「震災の年末、気仙沼市本吉図書館長の千田基嗣氏は、内山節著『共同体の基礎理論~自然と人間の基層から~』(農文協、二〇一〇)を勧めながら、地方自治に関わる論者に問いかけをしている。」(10ページ)

 

 と、私の書いた文章を引用されている。少し長くなるが、再引用というのか、一種の孫引きというのか、少々お付き合いをいただきたい。

 

「『ここで私が述べることは、地方自治に関わる論者にとっては議論の自明の前提であり、あれやこれやと惑うような問題ではないのだろう。「自由な自立した個人」の絶対視はもはや時代遅れであり、可能性は「共同体」の復権にしかないと。だが、私はいつまでも「自由な自立した個人」にこだわり、ぐずぐずと思い悩んでいる。』(千田)

『現在の自由な豊かな生活とは、住み慣れた、お互いに助け合う「共同体」の喪失でしかなかったのか、という論点が、私たち(殊に、自治の現場にいる職員)に突き付けられている。』(千田)

明治以降の近代化は、国民国家の形成によって個人を基礎とする社会の創造をめざす。資本主義的な市場経済の形成と科学的合理的思考に依存する精神を確立させる。という強い方向性をもってきた。内山氏がこうした近代化日本の方向性を指摘し、同書において共同体への再結合を目論むことに千田氏は戸惑いを隠さない。

『いや、今でも私は「共同体」にどこか馴染めないものをもち続けている。自由な自立した個人としてこの国の中でいっぱしのポジションを得て、日々の暮らしも成り立つような人間であることをどこかで熱望している。気仙沼という狭い地域にどこか収まりきれない。充足しない。職場にも、、まして、地区の自治会にも。』(千田)

この書評について、著者、評者それぞれに対して私は心情通底するものがあり、気になって今日まできているのでここに引用した。」(10ページ)

 

 内山節氏の著書を紹介した千田の文書を引用した今井氏の文章を、再びここで千田が引用しているというややこしい構造である。実は、私の書評では、思想家東浩紀が、現在の社会は、震災以前からすでにばらばらなのであると評した文言にも触れているのだが、それはまた余談となる。

 

「この先このままで豊かな生活は持続できるのであろうか。長い歴史の中で線香花火のように過激に煌びやかに飛び開いたものの、やがて垂れ火となってむなしく落ちることになってしまわないであろうか。このままではもうダメになるのではないか。…(中略)…役所に身を置いて、日常担当している職務を、長い歴史の中に位置づけることなど誰も考えないことであろう。」(11ページ)

 

 そういう、誰も考えないようなことに取り組んだのが、この今井氏の著書である。

 江戸時代以前の地域における寺の在り方が、共同体の存立や福祉の担い手として機能し、まさしく現在の市役所、町村役場の役割と重なることを説いた第一章、第二章から始まり、仏教自体の成立や日本での受容についてまとめ、震災以降に、被災地支援の経験をもった仲間とともに取り組んだ地域づくり活動の紹介まで、市役所職員と仏教の学び手の両面にわたった今井氏の生き方の集大成ともいうべき書物である。

 われわれ自治体の職員であるとか、地域に生き続けようとするものにとって、一読、触発されるところ大きいものと思われる。

 終章に、次のようにある。

 

「日本人にとって、団塊の世代くらいまでに引き継がれた仕事の社会的な価値観は競争主義であった。…(中略)…そのような考えに牽引されて、自治体や企業、学校、病院などで働く大多数の人々の価値観は、経済的に有利になるような能力主義一辺倒の効率主義に染まったものだった。」(168ページ)

 

 今、求められるのは、

 「効率的なものでもなく…数値的な競争によって能力が測られるような同質性を求められるようなものでもない。むしろそれらの反対で、ゆっくりとしたペースで道草をくいながらも、その場その場にいろいろな価値を見出しながら、良きにつけ悪しきにつけ、ひろく恕し合いのプロセスを踏んでいくこと」(168ページ)

 

 

なのだろうという今井氏の考えは、まさしく、私自身の考えと同じ、といって間違いないものである。


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