ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

谷川俊太郎「ミライノコドモ」岩波書店

2013-10-15 11:48:23 | エッセイ

  「こころ」のほうは、朝日新聞出版から2013年6月30日に出て、8月15日で五刷を重ねている。

 「ミライノコドモ」は、6月5日の初版。アマゾンで同時に購入したもの。

 「こころ」は、朝日新聞の連載を一冊の本にまとめたもので、ソフトカバー。123ページまで振ってある。定価1200円プラス税。

 「ミライノコドモ」は、未発表のもの、現代詩手帖など様々なメディアに発表したものを集めたもの。ハードカバー、箱入り(背の部分がなく、表表紙の文字の処だけ正方形にくり抜いてある。)、61ページの上品な製本。薄い。そうか、逆にこれには普通のカバーはついていない。シンプルな白い本。箱は、素材そのままのようなグレー。装丁は、菊池信義。

 生きているうちに、一冊でいいから、こんな詩集を出してみたい。できれば、どこかの出版社から。定価は、1400円プラス税。

 「こころ」は、編集者の意図がある。行数、内容、ひとつのまとまった条件がある。とりつきやすさ。

 「ミライノコドモ」は、現時点における、谷川俊太郎の最高傑作なんだろう、と夕べ思った。もちろん、一見、難しくはない。しかし、良く読むとそう簡単ではない。

 

  その日が戻ってきているのだった

  あの夏のその日のが

  そこに

  丘の斜面に立っている

  楡の木陰に

 

  老いた私にだけ見える

  若い私がいる

  その日の そこに

 

  幼年時代の霧の中から

  ぼんやりと姿を現した人生に

  おそるおそる手を触れて

  いつの間にか手を掴まれて

  引きずりこまれて

 

  今日

  若い私は咎めるように

  老いた私をみつめる

 

 (32ページ その日 全文)

 

 その日というのは、昔、ネロのいたあの夏の日だ。若い私は、ネロといた私、あるいは、ネロを書いた私、十代の谷川俊太郎に違いない。

 あれから、半世紀を過ぎた。最初の詩集「二十億光年の孤独」から。

 八十歳を超えた今の私を、若い私は咎めるように見つめるという。

 そうだな、羨望されるようだったり、満足するようだったりではいけない。それは、「咎めるように」でなければならない。

 何故、咎められなければならないのだろうか?

 人間は、老いて、若い頃に求めたような未来を生きられる、完璧にそんな未来を生きられるわけではない。これは、どんな人にとってもそうだ。どんなに金持ちで、どんなに社会的な成功を収めた人であってもそうなのだ。もちろん、あの谷川俊太郎においてすら。(だから、これは、今の谷川を咎めることが正しいと言っているわけではない。六十歳に近くなった私自身を重ねて、そして、広く、すべての人々を重ねて、そう言っているのだ。)

 「若いころの私は、今の私を満足そうに眺めた」などと書くひとはいるかもしれないが、それは、決して詩人ではない。(小説家は、多重な登場人物の中には、そういう人物も書き分けるに違いない。)

 若い私は、もっともっと、大きな輝くものを求めていた。輝くものを求めていなくてはならない。現実が、いつも、そこには辿りついていないような、辿りつくことができないような夢を、胸に秘めていなければならない、ということだ。そして、それは、完全には叶うことがない。だれでも、いつも、決して。

 

  物語には終わりがあるが詩には終わりがない

  詩の中でフリーズした瞬間を

  「仮面をかぶった永遠」と呼んで

  あのひとはすり切れた一冊のノートを

  遺失物のように私に遺した

 

  (6ページ 時 最終連)

 

  「フリーズ」したりするのは、ちょっと今どきの若者たちへのサービスが濃いと思うが、「永遠」だとか、「遺失物」だとか、これも、「二十億光年の孤独」の世界だ。「すり切れた一冊のノート」とは、まさしく、その詩集に他ならない。

 

  重力が地球を隅々まで支配している以上

  落下地点は大気圏を逸脱しない

 

  (27ページ 落下 最終連から)

 

とか、

 

  私は家屋の中に横たわっています

  家屋は地面の上に建っています

  地面は地球に属しています

 

  私は夢を見ません

  という夢を私は見ています

  夢は宇宙の細部です(たぶん)

 

  (28ページ 夢と家屋 第一連と第二連)

 

など、「二十億光年の孤独」の世界は、ほとんどすべての詩に紛れこんでいる。

 そして、その若々しい世界は、老いた詩人を通して、次の世代に繋がっている。引き継がれていく。

 

  虫たちのかすかな羽音が森の言葉

  鳥たちのさえずりが 獣たちの低い唸りが

  木々のそよぎが森の言葉

  夜空の星の動きの静けさもまた

 

  (中略)

 

  どんなに目を瞠っても見えぬもの

  それを耳が引き継ぐ

  どんなに耳をすませても聞こえぬもの

  それを引き継ぐのは心のふるえ

 

  (中略)

 

  砂に埋もれた森はこの星の記憶の一部

  水に沈んだ森も化石となった森も

  ときに心の断層から姿を現す

  ヒトは森を抜けることは出来ない

 

  (42ページ 森の言葉 第一連、第三連、最終連)

 

 ひとは繋がっていくし、もちろん、ひとがいなくても、世界は、宇宙は続いていく。ブッダの聖地を訪れたらしい、2011年2月5日の日づけのある「ガヤの村でゴータマに」(54ページ)(言うまでもなく、ゴータマは、ゴータマ・シッタルーダ、お釈迦様、仏陀のこと。)とか、その前のページの「雲の懐かしさ」(52ページ)、次のページの「河原の小石」(56ページ)も、引き継がれていくものたちが描かれている。

 「突き当りの部屋」では、

 

  古ぼけた共同住宅の

  きしむ階段を上がっていくと

  突き当りの部屋から

  ピアノが聞こえてきた

  モーツァルトの初期のソナタ

  ドアが半開きになっている

  音に誘われてノックせずに入った

  どっしりした木製のラジオ

  白い杖 揺り椅子に座った老人

  巣のように丸めた手のひらに

  見慣れない卵がひとつ

  膝をかかえて床に座って

  一緒にモーツァルトを聴いた

 

  開け放たれた窓からの微風が

  カーテンを揺らしている

  世界はこれからどうなるのだろう

 

  (58ページ 突き当りの部屋 全文)

 

 ここには、谷川俊太郎の父がいて、母がいて(モーツァルトを弾く母!)、俊太郎自身がいて、そして、「ミライノコドモ」がいる。

 この詩集を読んで、宮崎駿の「風立ちぬ」と思いが繋がっていく、というと、最近の流れに迎合しているようでもあるが、このふたりの老人たちの思いが、深いところのどこかで繋がっているというのは恐らく的外れな指摘ではないだろう。

 この詩集は、谷川俊太郎の現時点での最高傑作だとさきほど、書いた。この印象は誤っていないと思う。若いころの谷川から、現在の谷川を通して、「ミライノコドモ」たちへと継続していくなにものか、がここには表現されている。

 これは、ほとんど蛇足だが、「極めて主観的な香港の朝」(50ページ)は、戦後現代詩の出発点に置かれた鮎川信夫の傑作「繋船ホテルの朝の歌」に遠くこだましている。港の朝のホテル。第2連の4行目「結局罪なんてものはどこにもなかった」の一行など。

 さて、詩集最後の詩はタイトル・チューン「ミライノコドモ」、その最後は、

 

  ミライノコドモノアタマノウエヲ

  サヨナラトコンニチハガ

  チョウチョミタイニヒラヒラトンデル

 

で終わる。


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