自由への道の2冊目。
主人公マチウはパリの街をさまよい歩く。ふたりの女のあいだを無様に揺れ動いて。中絶費用のためのうまくいかない金策と、金策から目を背けるためのようにも見えるダンスホールでの若い女との交流。
サルトルの現実のある時期の人生そのままではない。作者自身が一定のモデルではあっても、全てがノンフォクションではない。
主人公マチウの長年の恋人で、妊娠したマルセルは、シモ―ヌ・ド・ボーヴォワールとは違う。
ボーヴォワールの本は読んだことがないからだが、ボーヴォワールは、もっと主体的に行動する女性のはずだ。サルトルの終生のパートナーで、主著「第二の性」で高名な思想家。ウィキペディアを見ると、「On ne naît pas femme:on le devient. 人は女に生まれるのではない、女になるのだ」、ああ、そうそう、これは有名なことば。名言だな。
マルセルは、聡明ではあっても、インテリとは描かれず、病弱で部屋に引きこもり、ほとんど外出することのない人物とされている。子どもを堕ろす、産むという選択を主体的に行おうとすることはなく、マチウの選択、あるいは、金策の成否に任せている。ふたりの合意として結婚はしない、と言っているようだが、実は、結婚を望んでいる、しかし、マチウに言いだせない、というふうに描かれているようだ。
ボーヴォワールが、サルトルとの結婚を望んでいなかったのかいたのか、最終的には、そんなのはどっちでもいい、ということになったのだろうが、出会った当初の段階では、どうだったか。サルトルにしても、ボーヴォワールにしても揺れ動くものはあったのだろうな、と想像される。
結婚などという制度は無意味であるとか、男女の固定した役割分担など打破すべきものであるとか、20歳前後の彼らが青くさく熱い議論を交わしていたことは間違いないだろうが、後の彼らの生き方が、新しい人間の生き方を作ったことに間違いはないとして、ことのはじめから、確立されていたわけではないことも言うまでもないことだ。いろんな議論をして、ああだこうだと揺れ動いていたことも間違いはない。
この小説の中で、マルセルは、マチウの考え方に影響され、というよりもそれに遠慮して、自分のもともと求めるような生き方(マチウの妻になり、ふたりの間の子を持つこと。)を押しつぶそうとする女性に描かれている。それは、ボーヴォワールのようではない、たぶん。(ボーヴォワールのなかで、初期にそういうふうに思う瞬間が全くなかったともいえないし、その部分を拡大してモデル化したとも言えるのかもしれない。)
さて、今回、第2分冊を読み始めて、すぐ、先日読んだばかりの佐々木中の「らんる曳く」が思い出された。なにか、似ている。
舞台は、パリと京都。主人公は、都会の中を歩き回っている。電車に乗ったり、タクシーに乗ったり。繁華街に出入りする。ダンスホールに入り、クラブに出入りし。もちろん、どちらもインテリっぽい。
相手の女は、30代のインテリ女性、相当に美しく魅力的である。もうひとり、20歳の小娘、どこか容貌に欠けたところがあり、普通の意味で美しいというのとは違うとも言えるが、そこも含めて結果美しく、とても魅力的である。
音楽のこと、ファッションのこと、髪型のこと、大学のこと。
結末は、なにかが解決したようではない。(自由への道は、第一部の分別ざかりが終わったばかりなので、解決していないのは当然だが、この小説自体、最終的にも未完である。)
なるほど、「らんる曳く」は、「自由への道」を下敷きにした小説だった。あるいは、「自由への道」を読み終えていることを暗黙の前提とした小説であった。その「教養」があってこそ、なおさらに、よく読める小説。その魅力がつかみとれる小説。
「自由への道」は、思弁的な小説であることに間違いはないが、案外、肉体のことを書いている。ナイフで傷をつける。殴る。肉体の苦痛。
透明な精神のことばかりではない。透明な精神の産物として統合された物語ではない。
透明な精神のみで書いた物語は、実は、読みやすいファンタジーになってしまう。その精神に抗うものとは肉体である。
精神が、肉体を離れてはありえないというのはあたり前のことだが、そのあたり前のことを、きちんと踏まえて書いている。こんなのは、言うまでもないことかもしれないが。
ということで、とりあえず、岩波文庫の第2分冊までしか買っていなかったので、続きを買うことにする。
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