ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

松本俊彦 誰がために医師はいる クスリとヒトの現代論 みすず書房

2021-05-09 10:51:44 | エッセイ
 松本俊彦氏は,精神科医。1967年生まれ、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部長とのこと。
 この書物は、今年の4月1日に初版発行であるから出版されたばかりである。著者の肩書きはお堅いものであるが、イタリア車・アルファロメオのオーナーで、レゲエのファンらしい。フェイズブックを見るとなかなかの男前である。タイトルは,ヘミングウェイの小説のパロディでもあり、サブカルチャー方面の話、自分の少年時代のことなど文学的に読める書物である。
 ただし、ここでいう文学的というのは、安易な,とか、論理的でないという意味ではない。精神医療というものにとって、たいへん重要な問題提起の書である、というべきである。著者自身の体験がエピソードとして描かれ、それが、原理的な考察につながっていくという意味で文学的なのである。深みのある、立体的な、と言えばいいか。

【人は裏切るがクスリは裏切らない】

「ラフマニノフの,あの暗い情熱がほとばしる音楽を聴きながら、いまだやめられない煙草をくゆらせていると、不意に彼の言葉を思い出すことがある。
 「人は裏切るがクスリは裏切らない」
 自身のアディクション臨床のなかで、これと同じ言葉を何人もの患者から聞かされてきた。彼らは、安心して人に依存できない人たち、あるいか、心にぽっかりと口を開いた穴を「人とのつながり」ではなく、クスリという「物」で埋めようとする人たちだ。」(20ページ)

 彼というのは,中学時代の同級生、シンナー常習の不良グループの中心人物で、クラシック音楽の愛好家であった。彼との出会いが、薬物依存の専門家として立つ、ひとつのきっかけであったのかもしれない、という。
 しかし、当初は何をどうすればいいのか、ひとつも掴めなかった・

「誤解を恐れずにいえば、薬物誘発性依存症の治療はたやすい。閉鎖病棟に強制的に入院させ、物理的に薬物から切り離した環境で抗精神病薬を投与する。それだけだった。…放っておいても二、三週間で精神状態はすっかり改善する。
 しかし、本当の問題はその先なのだ。すっかり正気を取り戻して退院すると、患者は、拍子抜けするほど簡単に薬物を再使用してしまう。…
 そのシジフォスの神話にも似た徒労感は、まだ若く意欲に満ちていた当時の私をひどく萎えさせた。」(24ページ)

 患者は、あたかも完治したかに見えて退院した直後、いとも簡単に薬物の再使用に走る。振り出しに戻される。未来永劫徒労を重ねるだけと思えてくる。

「薬物をやめさせることについては何一つできなかったのだ。なにしろ、依存症には幻覚・妄想に対する抗精神病薬のような治療薬――たとえば「覚せい剤を嫌いにする」薬――など存在しない。」(30ページ)

 覚せい剤を嫌いにする薬などどこにも存在しない、か。なるほど。

【NA:薬物依存症者の自助グループ】
 しかし、そういう松本氏に転機が訪れる。

「ところが、依存症専門病院に赴任して半年を過ぎたころ、思いがけず突破口が開かれた。
 私は,自分が担当する患者から,ある日曜日、薬物依存症者の自助グループであるナルコティックス・アノニマス(Narcotics Anonymous;NA)のオープン・ミーティングに参加してくれないかと誘われたのだ。」((32ページ)

 NAとは、アルコール依存症者の自助グループAA(アルコホリクス・アノニマス)から派生した活動である。
 その患者は,著者に向かって、「ひとり言のように話し始めた」という。

「…私の考えですが,自助グループには二つの効果があります。一つは過去の自分と出会うことができるという効果です。…薬物をやめるのは簡単です。難しいのはやめつづけることです。…薬物による苦い失敗という最近の記憶はすぐに喉元を過ぎてしまうからです。いつまでも鮮明に覚えているのは薬物の使いはじめの時期のはるか昔の楽しい記憶ばかりです。」(35ページ)

「ところが、…新しい仲間…の姿は,重大な決意をもってその会場を訪れたかつての自分の姿と重なり、…最期に薬物を使ったときの苦々しい記憶を蘇らせ,初心を思い出させてくれます。つまり、ミーティングでは過去の自分と出会い直すことができるのです。」(36ページ)

「もうひとつは,未来の自分と出会うことができるという効果です。」(36ページ)

 これは、つまり、立ち直っていく先輩の姿である。
 患者自身が、過去の自分そして未来の自分の似姿に向き合うことが、依存症からの脱却の契機となる。

「思えば,駆け出しの私は,急性期病棟での臨床を少しばかり経験したせいで傲慢になっていたのであろう。強制入院や行動制限を行ないながら、薬物療法によって人を変えることができるような万能感にさえ陥っていたのかもしれない。
 しかし、それは本来の「心」の治療ではない。」(38ページ)

 強制入院、行動制限、そして薬物療法という、これまでの精神科医療の王道(というかなんというか)のように見える方法では、ひとは変わらない、のである。
 続けて、松本氏は医療者の役割を謙虚に語る。

「私たち医療者にできるのは,依存症患者が落ち着いて自分の今後を考えられる機会と情報を与え、彼らが自分を変えるための行動を起こしたときに伴走し、「それでいいんだよ」と応援することくらいしかない。…依存症患者に対して「浮き輪」を――できれば絶妙なタイミングで――投げてやり,陸地のある方向を教えることだけであり、その「浮き輪」を自分の手でつかんで陸地まで泳いでいくのは。依存症者自身なのだ。
 仮に,彼らが陸地を目指して泳がなかったとしても,そのことに関して私たちはどうにも責任のとりようがない。しかし、それは無責任とは違う。当事者の健康さを信じ,相手の「心の自由」を保証するがゆえの配慮なのだ。」(38ページ)

 このあたりは、國分功一郎氏の「中動態」とか、「責任」についての行論と深くシンクロするところであろう。また、オープンダイアローグで働いている心の機制と通じるところがあると思える。
 NAのミーティングへの参加は、松本氏にとって大きな転機となった。

「要するに,依存症という病気は、まずは当事者によって発見され、医学は長いことそれを疑った後にようやく追認し,その後、今日まで当事者の経験と知恵を学んで(もしくは,盗んで)できたわけだ。…
 ならば、と私は気持ちを定めた。いまはとにかく,当事者から学んでみよう、と。
 …後に気づいたのだが、このような治療者の「学ぶ姿勢」は、患者と「綱引き」をしない、協働的な治療関係を作りあげるのを助けてくれたようだ。」(40ページ)

【ある患者の自殺】
 さらに、若い松本氏は、ある薬物依存患者の自殺という事件に遭遇する。その後、それまでの精神医療の常識、つまり、患者のトラウマについて聞くべきでないという先輩たちの指導、そこから離れ、むしろ反するようなスタイルを取るようになった。これまでの常識は間違っていたと気づいた。

「自分のまちがいに気づくことができたのは、私自身の診療スタイルが変化したおかげであった。彼女が自殺して以来、患者のトラウマ体験について積極的に聴くようになったのだ。…
そのような新たな診療スタイルで情報収集を行っていると、あの自殺した女性患者と同じ症状を示した患者は、いずれも悲惨な成育背景を持っていることがわかった。」(51ページ)

「…あの女性患者が,入院前、夜になると決まって強烈な覚せい剤渇望に襲われていたのは、トラウマ記憶のフラッシュバックが引き起こす心の痛みを紛らわせる方法が,…それしかなかったからではないのか…」(52ページ)

「…あの患者のおかげで,私はアディクションに関してこれまでとは違う二つの視点を持つことができた。一つは,トラウマ体験が引き起こす深刻な影響であった。そしてもう一つは,薬物依存の本質は「快感」ではなく「苦痛」であるという認識だった。」(55ページ)

 快感ではなくて、薬物依存の本質は「苦痛」である。これは、一般のイメージと180度違う、というべきかもしれない。

「こういいかえてもよい。薬物依存症患者は,薬物が引き起こす、それこそめくるめく「快感」が忘れられないがゆえに薬物を手放せない(=正の強化)のではない。その薬物が、これまでずっと自分を苛んできた「苦痛」を一時的に消してくれるがゆえ、薬物を手放せないのだ(=負の強化)、と。」(55ページ)

 われわれの社会は、薬物依存について、今に至っても、誤った常識を正さずにいるのかもしれない。

【自傷する患者、少年矯正の世界】
 そして、自傷行為について、さらには、少年の犯罪行為、非行行為についても、大きく見方を変更しなくてはならない。松本氏は、自傷行為を行う患者の語るところを聞き取った。

「ある女性患者は、自身が自傷行為をする理由についてこう語った。
 「心の痛みを身体の痛みに置き換えているんです。心の痛みは何かわけがわかんなくて怖いんです。でも、こうやって腕に傷をつければ、「痛いのはここなんだ」って自分に言い聞かせることができるんです。」…
 おそらく自傷行為は、「痛みをもって痛みを制する」行為なのだろう。」(55ページ)

 自らの体を傷つける、いかにも不健康な行為である。下手をすれば、そのまま命を落とす危険性もある。しかし、それは,逆に生き延びるための行為なのだという。

「生き延びるための不健康。しかし、それは何かの依存症を抱える人だけのものではないのかもしれない。一見すると健康そうに日々のルーチンを生きている人たちのなかにも、ささやかな不健康や痛みでバランスをとっている人は少なくないのではなかろうか。」(57ページ)

「近年における「浦河べてる」の当事者研究やオープンダイアローグの実践は,統合失調症を抱える者の一見荒唐無稽な語りのなかにこそ主観的な真実があり、それをめぐって対話することの治癒力を明らかにしている。それから,リストカットを操作的,演技的行動と捉えるのは時代錯誤的な妄言であり、現実にはその正反対、感情的苦痛に対する孤独な対処スキル、つまり、「人は裏切るがリストカットは裏切らない」と信じ込み、援助希求しないことを問題とする捉え方に変化している。そして、自殺念慮について質問することなしに自殺リスクの評価など不可能であり、当然ながら、自殺を回避するための治療同盟を患者と築くこともできない。」(60ページ)

松本氏は、精神科医としての転機の一つに、少年矯正の世界を体験をしたことを挙げる。

「…世の中にこんなにもたくさんの不幸があるのかと耳を疑いたくなるほど、深刻なトラウマ体験を生き延びている子どもたちばかりだった…」(64ページ)

「そうした犯罪の加害者である子どもたちの話を聞いていると、彼らこそが被害者であり、必要なのは刑罰ではなく、精神医学的・心理学的な治療なのではないかと思わざるを得なかった。」(67ページ)

 松本氏が,当事者に学ぶ姿勢をとることによって得たものはとても大きなものだった。

【クスリとヒト】
 ところで、私にとって、コーヒーのない生活というのは、想像もできないものである。タバコは止めたし、実は、酒は飲まない日のほうが全く多い。人と交わるうえで、あったほうがいいし、美味しい酒は美味しいと思うが、なければないで大丈夫かもしれない。しかし、コーヒーは別である。
 休日の朝、起き出して、まず豆を挽いてコーヒーを淹れる。この時間の幸福なしに、私は生き延びていくことができないかもしれない。依存しているのかもしれない。
 松本氏にとっても、コーヒーは必要なものらしい。

「大学生になってひとり暮らしをはじめて以来、コーヒーは私にとって生活必需品となっている。」(113ページ)

 なんの薬物にも依存しないで生きている人というのはいるのだろうか?
 あるとき、仕事上かかわりのある厚生省の麻薬取締担当官(マトリ)らと懇親の酒席があったという。

「マトリグループのひとりが,呂律の回らぬ口調で絡んできた。「…とにかく「薬物のない世界」を作りたいんですよぉ」
 私も…つい大人げない喧嘩腰の反論をしてしまった。
 「薬物のない世界だって?は?絶対無理ですよ…だって人間は薬物を用いる動物ですから」」(124ページ)

 マトリグループにとっては、衝撃的な発言だったのではないだろうか?薬物依存症の専門家である医師から、「薬物のない世界は絶対無理だ」と宣告されたわけである。

「自身のキャリアのある時期から,私はかなり真剣に「人間は薬物を使う動物である」と信じるようになっていた…。」(124ページ)

「薬物の歴史は人類の歴史と同じくらい古い」(125ページ)

「われわれが肝に銘じておくべきなのは、どの民族、どの文化にもそれぞれお気に入りの薬物があり、その薬物を上手に使いながらコミュニティを維持してきたという事実だ。メキシコ人にとっての大麻、ペルー人にとってのコカの葉、アメリカ先住民にとってのペヨーテなど、数え上げればキリがない。かつて清朝時代に中国を訪れた英国人は,中国人が日常的にあへんを使用していることに驚いたが、そのとき当の中国人は,英国人がアルコール度数の高いウィスキーをうまそうに飲むのを見て腰を抜かしたという逸話が残っている。」(127ページ)

 いうまでもなく、お酒、アルコールも薬物である。

「最近つくづく思うことがある。それは,この世には「よい薬物」も「悪い薬物」もなく、あるのは薬物の「よい使い方」と「悪い使い方」だけである、ということだ。これが、「なぜアルコールはよくて,覚せい剤がダメなのか」というあの患者の問いかけに対する,私なりの答えだ。」(131ページ)

【「ダメ、ゼッタイ。」では、絶対ダメ】
 そして、この続きの言葉が、非常に大切なところだ、と私は思う。

「そして,この答えには続きがある。「悪い使い方」をする人は、必ずや薬物とは別に何か困りごとや悩みごとを抱えている。それこそが、私が医師として薬物依存症患者と向き合いつづけている理由なのだ。」(131ページ)

「…いま「ダメ、ゼッタイ。」が,薬物依存症患者を孤立させ、彼らを回復から遠ざける呪文となっている。
 だから、私は機会を捉えてはくりかえしこう主張しなければならない。
 「ダメ、ゼッタイ。」では、絶対ダメだ、と。」(151ページ)

 薬物依存症患者は、「ダメ、ゼッタイ」という言葉によって分断され、追い詰められ、孤立し、回復から遠ざけられるのだという。この標語の制作者の意図とは、まったく逆の効果を生みだしてしまうわけだ。

「作家ジョハン・ハリは…、「アディクション(依存症)の反対語は「しらふ」ではなく、コネクション(つながり)」と主張している。鋭い指摘だ。孤立している者ほど依存症になりやすく、依存症になるとますます孤立する。だから、まずはつながることが必要なのだ。」(211ページ)

「「困った人」は「困っている人」なのだ。だから国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に耽溺せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援こそが必要なのだ」(218ページ)

 周りを困らせる人というのは、自らが深く傷つき困っている人なのだ、という視点の逆転である。
 なるほど確かにそういうことだろう。
 薬物依存は、犯罪として断罪することから、治療が必要な病気と捉える方向へ向かい、さらに、治療は、社会的なひとのつながりによる支援のなかでこそ可能になるというながれだろうか。司法モデルから医療モデル、さらに福祉モデルへと転換していくのだと。

【クスリとケア】

「以前,尊敬するベテラン心理士からこういわれた。
 「精神科医は薬を出すから、いつまで経っても心理療法がうまくならないのよ。」」(175ページ)

 この心理士というのは、アディクション界隈で、尊敬に値するベテランだとすると、直近に著書を読み紹介させていただいた方のものの語り方に似通っていると思うが、それはさておき、医療におけるクスリの問題を、問題提起する発言となっていると思う。
 精神科の医療において特に、であるが、医療全般における、クスリの効能とその限界の問題。
 〈覚せい剤を嫌いにする薬などどこにも存在しない〉のであり、〈薬物療法によって人は変わらない〉わけである。
 クスリのみに頼るのでなく、ケアすることの重要性を踏まえる、クスリもケアの一環としてこそ意味がある、みたいな。

 最後に、いささか文学的な終わり方を気取って、あとがきの前に置かれた、あるシーンを引用することとしたい。NA―ナルコティックス・アノニマスのメンバーとともに著者が出かけた、あるレゲエ・ミュージックの野外フェスティバルのことである。フィナーレの、アンコールの最後の最後に、出演者全員により『ノー・ウーマン、ノー・クライ』(ボブ・マーリーの名曲)が演奏された。舞台上の出演者だけでなく、会場の聴衆みな、リズムに乗り、声を合わせて歌いはじめる。

「私も彼らに声を重ねた。
エブリシング・ゴナ・ビー・オールライト!エブリシング・ゴナ・ビー・オールライト!」(212ページ)

 すべてはうまく行く、わけである。別にマリファナがなくたって。
 ただし、フェスティバルから日常に帰ったあとで、ほんとうにすべてがオールライトであるかどうかは、保証されているわけではない。しかし、だからといって、休日朝のコーヒーの至福が失われるわけでもない。


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