〈編集後記〉
◆気仙沼は、なんと言っても「おかえりモネ」の話題で持ちきりだった。開始前、私は、あの傑作「あまちゃん」を超えるドラマは難しいだろうと悲観していた。しかし、始まってみると今回は全く別種の作品として成り立っていた。一方の徹底した軽さに対して、重さのドラマだった。しかし、清澄な重さである。生々しい悲しみを濾過した深い哀しみ。上澄みのような苦悩。被災地の私たちを突き落とすのでなく、透きとおる美しさのなかに解放してくれる、いつのまにか温かい涙を溢れさせる、そういうドラマだった。画面を通してみる気仙沼の空と海は広々と美しかった。気仙沼の人間がこんなことを言っても手前味噌と揶揄されるのかもしれないが、美しかった。十年経ったからこそ可能な解放のドラマだった。もちろん、悲しみが消えたわけではない。私たちが生きている限り、心の奥底の悲しみが消え去る日は来ない。
◆霧笛の同人にも、このドラマは、大きなインスピレーションを与えてくれたようだ。むろん、私にも。それは決して表層的な人気にあやかるとかではなく、ドラマの制作者や脚本家が、気仙沼の歴史、社会、風土、自然の深いところを取材し、表現しえていたからのことである。
表紙・小田亜希子
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