ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

古川一義 『失われた時を求めて』への招待 岩波新書

2021-12-10 14:54:20 | エッセイ
 古川氏は、1948年生まれ、パリのソルボンヌ大学博士号を得て、現在、京都大学名誉教授、岩波文庫版の『失われた時を求めて』の翻訳者とのことである。
 プルーストの長編『失われた時を求めて』、私が読んだのは、鈴木道彦訳の集英社版である。全十三巻本の十三巻目の発行が、2001年で、直後に読んだわけではなかったはずだが、いずれ震災前ではある。もちろん、ブログに本の紹介を始める前、モンテーニュのエセー(宮下志郎訳、白水社版の七巻本)を、震災を挟んで後半は各巻の刊行を待ちながら読んで、五巻目からこのブログに紹介を始めているが、そのもっと前である。私は、1956年生まれなので、2006年に五十才となり、いずれ、その前後に読んでいることになる。
 そろそろ、フランスの古典に、改めて向きあってみたいと思ったのだった。ロシアのドストエフスキーの再読だったり、日本では何故か読む機会を持てなかった夏目漱石だったり、ということもあるのだが、なんといっても十九世紀のフランス文学をこそ味わいたいと。スタンダール、バルザック、モーパッサン、フローベールなど、少しづつ読んでは来たのだが、集中的にある程度網羅的に読んでみたいと。
 手始めに、二十世紀の入口、というよりは、十九世紀の掉尾に聳えているかのようなプルーストに取り組んだ、というところだった。
 読み終えて、この読書体験は、私にとって、大きな何ごとかであったのはたしかである。しかし、それが、では何なのかを語ることはなかなか簡単なことではない。

【はしがき から】
 さて、この新書のはしがきで、古川氏は以下のように記す。

「プルーストの『失われた時を求めて』は、百年前に出版された大長編で…、今やフランス文学を代表する傑作とされる。そこには紅茶に浸したマドレーヌの味覚から過去がよみがえる挿話をはじめ、多彩な比喩を駆使した自然描写が出てくる。そこまで書くのかと溜め息が出るほどに穿った心理分析も見られる。ユダヤ人や同性愛者への差別という社会問題も描かれる。社交界で交わされる会話には諧謔と皮肉があふれている。文学や絵画や音楽や演劇をめぐる深遠な芸術論にもこと欠かない。」(ⅰページ)

 なるほど。「フランス文学を代表する傑作」、それはたしかにそうに違いない。しかし、なんだろう、どこかにそういう言い方に違和感はある。

「タイトルの「招待」なる語は、…私自身が考えあぐねてきた疑問点を整理し、その解決策として私が本長編の核心と信じるものへ読者をいざない、おおかたの批判を仰ごうとするのが真意である。」(ⅱページ)

 ここでいう古川氏の疑問点と、私のいだく違和感は、当然に別のものではあろう。しかし、何か手がかりはつかめるかもしれない。

「全編にわたり克明に描かれているのは、恋愛の心理である。」(ⅲページ)

「…社会も描かれている。…十九世紀末から二十世紀初頭のフランスにおいて大きな影響力をもっていた社交界を通じてである」(ⅲページ)

「社会の描写と言えば、…ドレフュス事件と第一次世界大戦だけは詳しく長編のなかに取り込まれた。ところがこの二大事件は…さまざまな登場人物が口にする噂として提示されるに過ぎない。」(ⅳページ)

 ふむ。「恋愛の心理」と当時の「社会」が描かれている、か。たしかにそうだ。
 ここで描かれる社会とは、ほとんど社交界のことのようだ。ある時代のある人々にとっては、社会とは社交界のことに他ならなかった。つまり、当時のフランスの、上流人士にとっては、社会=社交界であった。そういえば、フランス語のsociété(ソシエテ)、英語のSociety(ソサエティ)は、日本語では、ある場合には社会と訳し、ある場合には社交界と訳す。ドレフュス事件も世界大戦も、社交界における会話、噂話のなかに登場するのである。大きな構えで、ダイレクトに描写され、問題化されることはない。大きな話が、小さな関係のなかでしか語られない。
 何か、表だって傑作とは言い立てることができない感じ、がつきまとう。
 恋愛については、異様に細密に描写されている、というべきかもしれない。しかし、普通の意味でうまくいった恋愛は、ひとつも描かれていない。ひとを泣かせて、微笑ませて、感動させて大団円に至るような、爽快な恋愛小説ではない。
 ここでも、傑作恋愛小説とは決して言えない感じ、となる。
 なにしろ、執拗に描かれるのは、同性愛であり、サドマゾヒズムの場面である。のぞきであり、噂話である。

「同性愛と関連して本作には「のぞき」の場面がいくつか出てくる。なかでも衝撃的なのは最終篇の男娼館においてベッドに縛られ鞭打たれるシャルリュス男爵のすがたであろう。この場面の意味するところを考えるには、これまた主人公がのぞき見る冒頭章におけるヴァントゥイユ嬢の同性愛シーンの検討が不可欠だと筆者は考えた。このふたりの「サドマゾヒズム」と小説の結論である芸術創造のテーマとの関連を考えるのが第9章の課題である。」(ⅴページ)

 以上、「はじめに」から紹介して、私の感じた違和感を述べて、あとは、書物に進んでいただく、としてもいいところだが、もう少しだけ、書物から引用して読んでみたい。

【第4章 スワンと「私」の恋愛心理】
 まず、第4章「スワンと「私」の恋愛心理」からである。

「もちろんプルーストも、幸せな恋の陶酔を語らないわけではない。スワンはオデットと結ばれた当初、相手に接吻の雨を降らせる。「このような恋の初期には、なんと自然に接吻が生まれることだろう!つぎからつぎへと湧き出すので、一時間に交わした接吻を数えようとしても、5月の野に咲く花と同じでとうてい数えきれるものではない」。…
 しかしスワンの恋といい、「私」の恋といい、本作における恋愛はすべて虚妄に終わる。スワンは恋敵の出現でオデットからつれなくされ、嫉妬にさいなまれるが、その嫉妬には明白な根拠がない。…
 語り手は、スワンが嫉妬に苦しむのは「間違って解釈された可能性のある状況に基づきオデットがほかの男と通じていると想定される瞬間だけ」である、と冷静な注釈を加えている。」(85ページ)

 物語のなかでの現実の話があったかと思うと、すぐさま、妄想めいた想像の世界に引き摺り落とされてしまう。「私」の初恋相手のジルベルトについても、後に共に暮らしたアルベルチーヌについても、この小説に描かれる恋愛の顛末はすべて同様のことである。

【第6章 「私」が遍歴する社交界】
 第6章は「「私」が遍歴する社交界」である。
 プルーストは、社交界のことを熱心に詳細に書き記している。文化芸術のみならず、政治、外交の舞台でもあった社交界。

「十八世紀には社交における宮廷の役割はすでに衰え、貴族が主要なサロンを主宰するようになり、十九世紀にはブルジョワ婦人たちのサロンも増大した。小説の舞台になった十九世紀末から二十世紀初頭のパリでは、こうした貴族やブルジョワのサロンが文化や芸術のみならず、政治や外交にも大きな影響を及ぼしていた。その後、二度の世界大戦を経てフランスの社会構造は激変し、貴族と社交サロンの支配力は消失した。」(119ページ)

 実は、プルーストは、社交界の役割が終わった時点から回想して書いているのだ。社交界のことは批判的に書いているには違いないが、しかし、どこか決別することができず、偏愛し、執着しているように見える。

「どうやらプルーストは、セヴィニエ侯爵夫人が書きとめた十七世紀宮廷の粋な会話も、当時の貴族たるヴィルバリジ侯爵夫人邸における社交人士のおしゃべりも、さらにはトイレ番の「侯爵夫人」の怪しげな駄弁も、尊大と差別に貫かれた人間心理を露わにする点でなんら変わるところはないと言いたかったようである。」(140ページ)

 トイレ番の侯爵夫人とは、もちろん、本物ではなく、それに似つかわしくない高慢なもの言いをする公園のトイレの管理人の女に、誰かが与えたあだ名にすぎないが、プルーストの、そしてプルーストを通して読者たる現代のわれわれにも通じてくる社交界へのいびつな憧れの象徴なのではないかと言ってみたくなる。

【第8章 「私」とユダヤ・同性愛】
 第8章は、「「私」とユダヤ・同性愛」と題される。ユダヤのことも重要な主題であるが、同性愛に関わる記述を読んでみる。

「神の「硫黄の火」によって滅ばされた旧約聖書の色欲の街にちなみ、プルーストは男性同性愛をソドム、女性同性愛をゴモラと呼びならわした。大作の後半は…同性愛を中心主題とする。」(171ページ)

 プルーストは、同性愛の正面切った歓びなどではなく、「同性愛者の屈辱と悲哀ばかりを描く」という。それは、

「屈辱こそ人間精神のドラマを明るみに出す格好の機会だからである。つぎのきわめて重要な一文は、プルースト自身が同性愛をいかに捉えていたかを如実に示している。「さまざまな障害にもかかわらず生き残った同性愛、恥ずかしくて人には言えず、世間から辱められた同性愛のみが、ただひとつ真正で、その人間の内なる洗練された精神的美点が呼応しうる唯一の同性愛である。」」(179ページ)

 青空の下での、若々しく屈託のない恋愛とは、ずいぶんとかけ離れた世界である。どこかねじ曲がった底暗い疑心暗鬼の世界。謎に満ちた世界。

「恋する相手の謎は、相手の真相を知りたいという恋心ゆえに生じるものであるから、恋愛感情がつづくかぎり謎はつづく。無関心になれば、やはり事実はわからないが、それは謎として意識されない。」(183ページ)

 無関心になるとは、恋愛感情が雲散霧消したあとということである。これは、男女間の恋愛でも同じことである。

【第9章 サドマゾヒズムから文学創造へ】
 冒頭でも触れた第9章は「サドマゾヒズムから文学創造へ」。同性愛、サドマゾヒズムこそが、プルーストにおける文学創造の秘密である。

「筆者がプルーストにおけるサドマゾヒズムなる概念を思いついたのは、『見出された時』に描かれた大戦下のパリで、同性愛者シャルリュスが男娼館でわが身を鞭打たせる場面からである。夜のパリを歩き疲れた「私」は、男娼館とは知らず、とあるホテルの部屋でのどの渇きを癒やしているとき、この衝撃的な場面に遭遇する。」(190ページ)

 疲れ果てて喉の渇きを癒やすのにたどりついたのが、そこらにありそうなカフェではなく男娼館だというのも、不自然な話である。「私」は男娼窟をこそ探していたのであるかもしれず、もちろん、プルーストはそこを描きたかったわけである。
 女性の同性愛、つまりレズビアンの例もあげる。

「つまりヴァントゥイユ嬢の快楽は、愛する父親の写真を冒瀆されるという「マゾヒスト」特有の受動的快楽に見えて、そのじつ冒瀆をそそのかして自分に苦痛を与えさせるという「サディスト」の能動的快楽でもあるのだ。」(194ページ)

 シャルリュス男爵も、ヴァントゥイユ嬢も、

「マゾヒストとして受け身の快楽をむさぼるため、サディストとして自分に苦痛を与えるお膳立てをしているのだ。」(194ページ)

【フロイトとボードレール】
 プルーストは、この二人を「サディスト」としか呼んでいないが、それは、概念としては、ずっと後の一九六〇年代にようやく定着する「サドマゾヒスト」という言葉の先取りであったという。そして、サドマゾヒズムといういささか倒錯的な人間の精神のありようは、精神分析の創始者フロイトも気づいていたことであった。

「実際、同一人物の中にサディストとマゾヒストの性向が共存しうることに気づいたのは、プルーストひとりではない。ほぼ同時期、フロイトも同様の事例を確認していた。」(195ページ)

「フロイトが『性理論のための三篇』(一九〇五年)に記したつぎの見解は、プルーストの…記述と驚くほど似ている。「この目標倒錯の最も目立った特徴は、その能動形式と受動形式がいつも、同一の人物のなかに二つ揃って見出される点にある。性的関係において他人の苦痛を生み出すことで快を感じるものは、性的関係から自分に生じるかもしれない苦痛を。快として享受する能力もある。サディストはつねに、同時にマゾヒストである」」(195ページ)

 シャルリュス男爵やヴァントゥイユ嬢のみでなく、小説の語り手である「私」も、また、例外とはならない。

「たとえ、その根拠が薄弱であろうと、想像力が豊かで傷つきやすい人間は、みずから生み出した妄想にわが身をさいなまれずにはいられない。恋に苦しむ「私」もまたサドマゾヒストなのである。」(201ページ)

 この文脈で、ボードレールの『悪の華』が参照される。

「このようにサディストとして自分に苦痛を与えマゾヒストしてその苦痛を快楽とする心的構造は、ボードレールの『悪の華』の有名な詩篇「ワガ身ヲ罰スル者」を想わせる。「おれは傷であって短刀だ!/平手打ちであって頬だ!/(…)犠牲者であって刑吏だ!/おれはわが心臓に喰いつく吸血鬼!/―あの大いに見捨てられた者のひとりだ」という詩句である。興味ぶかいのは、ボードレールがこのサドマゾヒストの状況を詩人の、ひいてはすべての芸術家の宿命とみなしているように感じられることである。」(205ページ)

 傷であって短刀、犠牲者であって刑吏、これはまさしく、サドマゾヒズムにほかならない。

「プルーストは、芸術や小説の創作に必要不可欠なものは苦痛であるから、芸術家たる者はみずからに苦痛を与えることに歓びを見出すサドマゾヒストたらざるをえない、と考えていたのではなかろうか。特殊な性愛に見えるサドマゾヒズム、『失われた時を求めて』の中心主題である文学創造と密接に結びついているのだ。」(207ページ)

【サドマゾヒズムこそが文学創造の鍵】
 古川氏は、「あとがき」でも、サドマゾヒズムに触れている。

「翻訳を終えてからも、この大長編を理解する鍵はサドマゾヒズムにあるのではないかと考えたりした。/プルーストにおける社交界、同性愛とユダヤ性、さらにサドマゾヒズムは、近年、私の関心の中心を占める。」((236ページ)

『失われた時を求めて』は、サドマゾヒズムの文学であった。矮小にも思われる極く私的な閨房のなかのできごと、それこそが、文学史上に燦然と輝く大傑作たらしめた鍵であると。
 昨今のあまりにも公明正大で明晰判明なLGBTX+を、という語り口で、抜け落ちるものはないのか?などというと、過剰な反応、それこそ反動的な言説になってしまうのだろう。そもそも男女間の恋愛も含めて、白昼堂々と、という側面と、漆黒の闇に紛れて、という側面と、二つあるわけである。地上に湧き出でる泉の豊潤な地下水脈を枯渇させるようなことはつまらない、というだけでなく、人間の生命の持続に、光と闇と、広場と閨房と、その両面が不可欠であるということにほかならない。光と闇の結合にこそ、官能の源はある。
 



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