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ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

立木康介 露出せよ、と現代文明は言う 河出書房新社

2014-03-15 14:50:47 | エッセイ

 サブタイトルは、「「心の闇」の喪失と精神分析」。

 筆者は、1968年生まれ。京都大学人文科学研究所準教授。パリ第8大学の精神分析の博士。ラカン派。

 河合隼雄は、同じく京都大学の先生だったが、ユング派。

 日本では、精神分析というのは、大学で系統的に学ぶということではないようだ。この本を読むと、フランスでもこの点に関しては同様であるらしい。何か、大学教育とは素直に同調しないものなのだろうか?

 精神医学の分野では、決して主流ではない、というか、むしろ忌避されているとすら言うべきなのかもしれない。思想とか、文学におけるその影響の巨大さに比べて、医学とか治療とか精神療法みたいな、実学的な分野では、現在、むしろマイナーなもの。

 私自身は、中学校、高校から大学のころまで、いや、それ以降もずっと、精神分析、心理学、哲学、文学に頼って生き延びてきた。文庫本の「精神分析入門」や「夢分析」などフロイトの著作に助けられた。だから、精神分析関係の書物は読みやすいし、好んで読んできている。

 しかし、ラカンは、難しい。どうも、いまひとつ分かった感じがしない。もちろん、ドゥルーズをはじめとする現代哲学が、かなり、ラカンの精神分析を下敷きにしていている、その哲学の分かり難さがラカンに影響しているともいえるが、そもそも、ラカン自体に分かりづらいものがあることは否めない。

 いやまあ、分かりやすいとか分かりづらいとか言って、それは誰にとって分かりやすいのかというと、小学生でも分かるとか言うレベルでないのは当然のことだ。

 その分かりづらさというのは、ラカンの数式好きに原因があるのではないか、とこの本を読んで思い当った。

 181ページに

 

 F(S...S´)S ≅ S(-)s 

 

という数式(アルゴリズム(演算の公式)というらしい)が出ている。Fはほんとうは筆記体のような関数を表すエフ。Y=F(X)のエフと言えば、分かるだろうか。イコールみたいなのは、イコールの上に波型がある記号だが、普通の文字変換ソフトには、出てこない。これは、どういう意味の記号なのだろう?

 続けて、この数式が説明される。

 「大文字のSは「シニフィアン」、小文字のsは「シニフィエ」もしくは「意味」を指し、「S...S´」はシニフィアンの通時的(時間軸に沿った)連結を表す。…(中略)…とすれば、この公式全体は概ねこう翻訳することができる。-シニフィアンの連結だけから成る関数は新たな意味を効果として生まない、と。」(181ページ)

 これは、いったい何を言っているのか?

 中略のところを略さないで全部引用しても、よく分からないひとが多いと思う。イコールの上に波の乗った等号のような記号の意味も明らかにならない。

 シニフィアンとシニフィエと言っても、大方のひとは、いったいなんのことだろうとなるはずだ。

 シニフィアンとは「意味するもの」、シニフィエとは「意味されるもの」、フランス語である。「意味するもの」とは、文字や声、「意味されるもの」とは、言葉の意味である。

 スイス生まれの言語学者ソシュールに発する専門用語だが、現代思想において、非常に重要な言葉のひとつである。

 たとえば「犬」という言葉がある。この「犬」という漢字の文字づらがシニフィアン「意味するもの」である。あるいは「いぬ」と声に出したときの音声、これもシニフィアン。それに対して、あなたがその言葉を聞いて思い浮かべるあの四足の動物、あるいは、あなたの傍らにお座りしたり、首輪をつけて共に散歩したりしているあの動物そのものが、シニフィエ「意味されるもの」である。

 ここまで説明して、「シニフィアン」と「シニフィエ」の意味をおおまかに理解いただいたとしても、まだ、上の算式の意味は分からないだろう。

 まあ、これ以上のことは、まずは構造主義の入門書を読んで、勉強してからにしていただこう。

 さて、第5章は「フォン・ハーゲンスのアートと『二つの死のあいだ』」と題されている。

 「私が死んだら、私の存在はどうなるのだろうか?」(136ページ)と書き起こす。

 「私の身体はプラスティック加工され、半永久的に保存されて、大衆の目にさらされるだろう、それどころか、彼らの手で触れられさえするだろう!…(中略)…それを可能にしたのは、旧東ドイツ出身の医師、グンター・フォン・ハーゲンスである。黒のシルクハットがトレードマークのこの不敵な解剖学者によって、1995年、死体は展示物になったのだ。」(136ページ)

 この新式のはく製の気持ち悪さ。本物の人体の一種のはく製の展覧会が、世界各地で開かれたらしい。この日本においても。1995年に東京で開催されている(実は世界に先駆けて)ようだ。

 まあ、死んだ後のことだから、どうなってもいいと言えばいいのだが、やはり、こういうのは、私自身は願い下げだ。顔の表皮を剥がされて、だれとも分からないようになっているらしいが、私自身であろうが、他人であろうが、想像するだけで気持ち悪い。そんな悪趣味な展覧会は、いっさい、見たいとは思わない。

 でも、これこそが、この公衆の面前にあからさまに晒された不気味な死体こそが現代の象徴にほかならないらしい。「露出せよ、と現代文明は言う」というタイトルそのものである。

 無意識の暗闇を、現代の人間は失いかけているのだと。あからさまなエヴィデンス、明白な証拠が過剰に尊重され、エヴィデンスのないものは無価値だとされる。

 「人々が今日、この抑圧中心の『心的経済』から、いいかえれば、セクシュアリティにつきものの挫折に耐えることを要求する欲望の経済から、離脱しつつあるというヴィジョンにほかならない。現代文明のうちに住まう私たちは、一連の挫折と抑圧によって私たちの心のなかに持ち込まれる『不快適』にアレルギー的になり、抑圧プロセスの『プラス面』にもはや見向きもせず、消費経済と科学テクノロジーの結託によって市場に氾濫する安易で手軽な享楽に身を任せることを無条件に選択する-メルマンはそう捉えている。」(154ページ)

 心のひだのようなもの、奥底の暗い無意識、そういうものが失われようとする現代文明は良きものなのだろうか?

 「私が『エヴィデンスの光』と呼んだ、単一の尺度ですべてを計測しようとする薄っぺらな科学主義-これは今日の世界を蹂躙するネオリベラルな資本主義が知的生産のフィールドを属領化するためにふりかざす道具にほかならない-は、結局のところ、光を当てることができるものだけに光を当て、カウントすることができるものだけカウントする思想だ。」(272ページ エピローグ)

 読み応えのある本だった。それなりに時間もかかった。この紹介を書くにも時間がかかった。それほど良き紹介にもなりえていないだろう。

 私自身の興味の本筋にある本でありつつ、しかも、分かりやすくもない。何と言ってもラカンは分かりやすくない。

 おもしろい本だったが、一般的に読みやすい本ということにはならないのだろうなとは思う。


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