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ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

東浩紀「動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会」講談社現代新書。

2013-07-04 00:05:29 | エッセイ
 もはや古典的名著といっていいのかもしれない。2001年初版で、もはや12年前、21世紀冒頭を飾った、時代を画する論考というべきか。12年8月で第25刷を重ねている。ここまで、なんとなく、手をつけないできたが、ついに読んでしまった。
 ポストモダンという言葉を、はじめて目にしてから、30年は経つのだろうか?
 ぼくは、いったい、モダンを生きてきたのか、ポストモダンを生きてきたのか?
 どっちなんだろう?
 「ポストモダン」という「言葉は。1960年代あるいは1970年代以降の文化的世界を広く捉えるため、現代思想や文化研究の分野でしばしば使われている。」(15ページ)
 あ、そうか、1956年生まれの私は、1976年に20歳なのだから、まさしく「近代の後に来た」ポストモダンの時代を生きてきたという以外のなにものでもないわけだ。
 で、動物とは何か?端的に言えばアメリカ人であり、その後に続いた日本人だということになる。これはちょっと乱暴な言い方だな。
 ちょっと長い引用をする。
 「コジェーヴの『ヘーゲル読解入門』…によれば、人間は欲望をもつ。対して動物は欲求しかもたない。…コジェーヴが『動物的』だと称したのは戦後のアメリカ型消費社会だった…アメリカ型消費社会の論理は…今では世界中を覆い尽くしている。マニュアル化され、メディア化され、流通管理が行き届いた現在の消費社会においては、消費者のニーズは、できるだけ他者の介在なしに、瞬時に機械的に満たすように日々改良が積み重ねられている。従来ならば社会的コミュニケーションなしには得られなかった対象、たとえば毎日の食事や性的なパートナーも、いまではファーストフードや性産業で、きわめて簡便に、いっさいの面倒なコミュニケーションなしで手に入れることができる。そしてこの限りで、私たちの社会は。この数十年間、確実に動物化の歩みを続けてきたと言える。」(126~128ページ)
 ああ、なるほどな、と思わせられる。われわれの日本人の社会も非常に便利で快適な、ストレスの少ない社会となった。アメリカだけでなく、この日本も紛れもなく動物化が進行している。2013年の現在は、気仙沼のような片田舎にも、終夜営業のコンビニエンスストアが溢れている。
 「コジェーヴは『帰るや蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散する』世界になると予測していた。」(128ページ)
 これ、反論できるだろうか?わたしはできないと思う。この点、東浩紀にはげしく同意せざるを得ない。
 「日本のオタクたちは、70年代に大きな物語を失い、80年代にその失われた大きな物語を捏造する段階(物語消費)を迎え、続く90年代その捏造の必要性すら放棄し、単純にデータベースを欲望する段階を迎えた。」〈78ページ〉
 大きな物語を失い動物化した私たち。この先、私たちは、なんらかの物語を回復しようとするのか、あるいは、もう一度人間を回復しようとするのか。
 「動物化するポストモダン」を書いた東浩紀の立場を是とするのか、しないのか、というところで、いまの日本でいささかでもものを考えようとするひとびとが、ふたつに分かれるのだという言い方ができるような気がする。
 いまは、夜も更けて、そろそろ明日の仕事のために就寝せざるをえないところだが、この問題、しばらく、抱え続けざるを得ないのだろうと思う。

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