ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

中井久夫 こんなとき私はどうしてきたか 医学書院

2020-10-13 13:22:39 | エッセイ
 シリーズケアをひらくの1冊。2007年に第一刷を刊行、2018年で10刷を数える。中井久夫氏は1934年生まれ。
 この本は「二〇〇五年六月~〇六年十月まで、兵庫県の有馬病院でおこなわれた「医師・看護師合同研修会」での講義内容をまとめたもの」とのこと。中井氏が70歳を超えて、神戸大学医学部教授を退いたあと、長い精神科医としての経験をもとに行った講話の記録である。

「なによりも大切なのは「希望を処方する」ということです。私は、予後については「医療と家族とあなたとの三者の呼吸が合うかどうかによってこれからどうなるかは大いに変わる」ということだけを申します。つまり「幅がある」「可能性がある」「変わりうる」ということです。」(10ページ)

 ここに「希望を処方する」と記されている。
統合失調症をはじめ、精神の疾患は治りうると、希望を提示すること。
 中井久夫という精神科医の、たぐいまれな治療者としての力量が明らかに示された場所であると言えるだろう。どんな病気でも魔法のように治せる技能を持ったという意味での「たぐいまれな力量」ということではなく、希望を提示しうる、というところにポイントはある。(そして、これまで読んだ何冊かの中井氏に関わる本によれば、どうやら中井氏の患者の治療の経過の良さというのは確実にあったらしく、それはまさしく、この「希望を処方する」というところに眼目があるのだろうと思う。)

「診断とは、治療のための仮説です。最後まで仮説です。「宣告」ではない。ウイルス感染にしても、血中のHA抗体が高いというのは感染なり再燃があったことを示唆しますが、同時に、抗体をつくって回復に向かおうとする力が働いていることも示すものです。しかし、医学は、つい後者を忘れがちです。」(12ページ)

 診断とは、仮説であって、宣告ではない。検査の数値の高さは、感染のエヴィデンスであり、病気であることの徴しではあるが、同時に、ウイルスに対して人体が戦っている証しでもある。ここで人体が戦っていることこそが大事であり、治療はその防御の反応をこそ出発点とすべきはずである。
 しかし、医療の進歩とか新薬の開発は、そういう人体自身の防御の働きを無視して、新薬が高性能の武器として病を打ち倒すのだ、みたいなイメージに囚われてしまう危険性がある。そうではないはずである。
 そもそも医療というのは、どこまでも、人体自体が治癒しようとする働きの手助けでしかない。人体のメカニズムが、異常な状態から健康な状態に戻っていこうとする際に、何らかの仕方で役に立つ、というのが医療行為の、また、医薬品の役割である。
 一般的に、いわゆる身体の病よりも、精神の病のほうが、病状の経過において、患者自体の希望の持ちように左右される度合いが高い、というのは納得しやすいことだろう。
 いずれ、診断は、医師から患者への一方的な宣告ではない、ここからの対処法を共有するための仮説なのだという。希望を共有するためのツール。
 力量のない医師が立てこもろうとする専門用語のブラックボックスではなく、手持ちの手段も明らかにしつつ開かれた場所に共に立とうとする志、といえばいいか。

「次に、「きみの側の協力は、まず第一に都合の悪いことを教えてくれることだ」と告げます。「たとえば薬に関する苦情を私に言うこと、これがあなたの側の最大の協力です。そうでなければ私はきっと間違って判断するだろうからね」というように。私は、若いときからずっとこうしてきました。これによって困ったことが起きたことはありません。
 また、面接のたびに薬の飲み心地を問います。「飲み心地を問う」のが精神科であり、飲んでいるのかどうかをチェックするのは内科でしょう。」(14ページ)

 薬についてのこういう姿勢は信頼し得る。どんな場合でも、薬の使用は試行錯誤でしかないはずだ。効くか効かないか、患者の体の反応を注意深くモニターしながら経過を見ていくというのが医師の役割であろう。そうではあっても、“まず都合の悪いことを教えてくれ”と言える医師というのは、そうそうたくさんはいないだろうと思う。
 そして、治るとはどういうことかについての考察。

「初診の時とは限りませんが、「治るとはどういうことか」が話題になることがあります。
 「治るということは病気になる前に戻るということじゃないんだ」と言うと、たいていの方が意外だという顔をされます。そこですぐに「病気の前というのは、これから病気になるという“病気の種子”がある状態で、不安定で危ういところがあったと思うが、どうだろう?」と申しますと、思い当たるような顔をされます。「治るとは病気の前よりもよくなることだと私は思います。見栄えは二の次で、病気の前よりも安定してゆとりのある状態になることです。それが精神科のむずかしさでもあり、やりがいでもあります」などと申します。」(15ページ)

 “治るとは、病気の前の状態に戻ることではない”、“もっと良くなること”、 もっと“安定してゆとりのある状態になること”。
 これは、もちろん、患者一人が良くなることを越えて、家族関係が良くなること、家族を越えた世の中との関係がよくなること、さらには、社会が今よりももっと良くなることまで含むものであろう。中井氏が、この本のこの個所で、具体的にそこまで拡げて言っているということではないかもしれないが。(よく考えてみると、これは精神科に限定された話ではない。たとえば、世界の紛争地域の衛生状態、栄養状態のこと。)

 と、まあ、そういうところである。
 未来の希望を語ること、余白を残しながら共に進んでいこうとすること、なにか、最近のオープンダイアローグの方法に通じるところが多々ある、というふうに思わされる。
 読者であるわれわれにも、“そんなときにわれわれがどういうふうにすれないいのか”ヒントを与えてくれる書物であり、中井氏の“希望”が分け与えられる読書体験であると言える。

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