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気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

熊谷晋一郎・編 みんなの当事者研究 臨床心理学増刊第9号 金剛出版

2017-10-22 12:52:28 | エッセイ

 熊谷晋一郎氏の名前は、先般、國分功一郎氏の「中動態の世界」で知った。東京大学先端科学技術研究センター准教授である。

 

「筆者は、生まれつきの脳性まひという身体障害を持っており、車いすに乗って、24時間介助を必要とする生活をしている。」(160ページ)

 

 身体障害の当事者であり、大学に籍を置く研究者である。

 熊谷氏は、冒頭、当事者研究とは何か、と題して、

 

「誰でも生きていれば、たくさんの苦労に直面する。そんなときは、友人や家族、同僚など、周囲の人々に相談するだろう。そして時には、対話を通じて、お互いの置かれた状況や思いを語り、より深く知り合うきっかけになることもある。さらに、一緒に作り上げた苦労や経験についての解釈をもとに、互いに協力し合いながら、折り合いをつけたり、状況を改善したりして、私たちは生きている。」(2ページ)

 

 そうそう、市井を生きるひとびとは、だれでも、相応の苦労を抱え、日常生活を送っている。職場で、家庭で、サークルで。そんななかで、語り合い、相談し、分かち合い、協力し、妥協し、共に生きている。

 そういう苦労の中には、いわゆる障害を抱えたひとびとの苦労、というものもある。

 

「しかし、一部の苦労、たとえば周囲の人には聞こえない声が聞こえるであるとか、周囲の人と大きく異なる信念大系のなかで生きる苦労といったものは、それを表明するや否や、隣人と分かち合うことが困難な病理とみなされ、病院など、特殊な空間で扱われてしまう。当事者は、隣人とともに苦労の解釈や対処法を編み出していくという、あたりまえの作業の機会を奪われ、専門家に丸投げせざるを得ない状況に置かれている。そして、苦労はその意味を奪われていく。つまり、苦労の背景にある状況や思いを深め合うことなく、「ただ取り除くべき無意味な症状」として治療対象にされてしまうのである。」(2ページ)

 

 そういう苦労は、日常生活のなかでの隣人と分かち合う機会を奪われ、医療などの専門家の手に委ねられてしまう。理解不能なものとして別置されてしまう。障害を持つ当事者からも、切り離され、自分ではどうにも対処できないものとして切り離されてしまう。

 それを、障害を持つ当事者の手に取り戻そうとする動きがあるのだという。

 

「北海道浦河町にある「浦河ぺてるの家」が長年挑戦しつづけてきたのは、こうしたあたりまえの作業を精神障害当事者の手に取り戻し、症状の有意味性を再確認するという、極めてシンプルなことであった。」(2ページ)

 

 症状の有意味性を再確認する。精神科の医療の世界では、幻覚や幻聴といった症状はあくまで病気の症状でしかなく、それ自体、当事者の生活にとって意味のある事象であるという捉え方がなされてこなかったきらいがあるらしい。薬や療法によって抑え込まれるべきものでしかないと。医療一般の世界では、「症状の意味を把握しない対症療法は危険である」というのが、常識であるにもかかわらず。

 

「注3 …精神病症状とみなされる経験や信念は、しばしば、困難な人生の出来事に対する十分に理解可能な反応である…。症状は取り除く前にその意味を探索するのが基本であり、意味を把握しないままの対症療法は危険である、というのは医学の基本であるが、精神医療の現場にもこの原理が徹底されつつあるのが現在の潮流と言える」(8ページ)

 

 そういう状況にも改革の動きが起こっているということらしい。

 

「現在、世界中で起こりつつある精神医療改革は、…精神障害を持つ当事者が、地域のなかであたりまえに隣人と自分の経験や苦労について話をし、一緒にその解釈や対処法について考えていけるような文化を作ろうという方向を向いている。」(2ページ)

 

 この本を読んでいくと、その新しい潮流は、障害者が生活をおくるうえで、確かによき改善が見られている、ということになるようである。いわゆる病気が快癒してくということも見られるようだし、治癒するのでなくても、問題なく日常生活をおくることができるという方向にも進んでいるようである。

 最近の動きとしては、精神科医の著述家・齊藤環氏らが紹介する、フィンランドに始まった「オープン・ダイアローグ」であるとかと、おおまかな方向性としては軌を一にするもの、というふうに、私には思われる。

 

 熊谷氏の論考の次に、第2章にあたる哲学者國分功一郎氏と熊谷氏の対談が置かれる。國分氏の「中動態の世界」を踏まえた対談である。私が、この「みんなの当事者研究」を読む直接のきっかけは、國分氏の著作である。

 

 第3章としては、「当事者研究のドライビングフォースー当事者研究の「歴史/哲学」」として、ソーシャルワーク、精神医学、アディクション(薬物等の嗜好、固着)と自助グループ、哲学、教育学、女性学など諸分野から見た当事者研究について語られる。女性学については、上野千鶴子氏が執筆されている。

 第4章では、綾屋紗月氏による当事者研究のやり方の紹介。綾屋氏は、東大先端科学技術センターの研究者で、自閉スペクトラム症当事者、発達障害者中心の当事者研究のグループ「おとえもじて」の主催者とのことである。

 第5章では、さまざまな分野における当事者研究が紹介される。男性と女性の薬物依存症者、統合失調症、双極性障害、発達障害、レビー小体症、子ども、吃音、聴覚障害、ジェンダーなど。

 

 この本は、オープン・ダイアローグに引き続き、大きな衝撃を受けた書物と言って過言でない。

 私の中で、高校生ころから心理学、特に精神分析に興味を持ち、書物を読み続けてきたなかで、こういう動きは、精神分析の発展形として理解したいもの、ということになる。いずれにしろ、素人でしかなく、なにか確実なことが言える立場でもない、といえばその通りなのだが。

 ただ、産業カウンセラーとして、一応の訓練を受けたところからいうと、カウンセラーの傾聴の力が引き出す、クライアントの語る力というか、当事者が自ら語ることの重要性、その自己治癒力のようなもの、そういうものは信じていい、というふうには思っている。一般に、ひとがみずからの未来の生き方を語ること、それは、相応に実現していくということ、というか。

 一方で、行政の立場にいると、障害者は障害者としてレッテルを張らざるを得ない。そうすることでさまざまな支援の施策を適用できるとか、あるいは、端的に、その障害の担当者の方へ、さらには病院へ障害者を別置できる、などという効用がある、などということも否定できない状況にいたりする場合もある。

 ここらは、本当は、慎重に丁寧に語るべきところだが、ここでは、ざっと、ということでご容赦いただきたい。

 

 ところで、教育学について、立教大学文学部教育学科の河野哲也教授が執筆されているが、実は、哲学を専門とされる教授は、気仙沼図書館の哲学対話のイベントに取り組まれている。千田が行った本吉図書館での哲学カフェに共鳴しつつ、新館建設中の気仙沼図書館の今後の方向性に大きな示唆をいただいている方である。出会う方とは、さまざまな場所で出会うものである。

 河野先生は、こう語っている。

 

「当事者研究とは、自分自身を他者による「治療」から取り戻し、自身の自律性を回復しようとする試みである。「回復」というと、もともと私たちが自律性をもっていて、それを当事者たちだけが失ったかのようであるが、そうではない。現代社会に生きる私たちはだれでも自律性を持ちえないでいる。そこでは、「普通」と呼ばれる他律的な基準を暗黙のうちに強制されている。「普通」の代わりに「空気」という言葉を使ってもよいかもしれない。」

(56ページ)

 

 私が行っている「気ままな哲学カフェ」の不思議な達成感のようなもの、参加者が居心地良く満足してもらえる成り行きについて、この「当事者研究」の本を読むことによって、どこか通じるところ、どこか納得できるような思いがあった。

 この本の中で、「当事者」ということば、「苦労」ということば、これらに新たな意味が付与されている、意味が広がっているという事態が了解された思いである。

 いわゆる障害を持った人々に限らない、日常の生活人が、それなりの苦労を抱えている。その苦労を語り合える場といえばいいか。しかし、苦労を深掘りしてその苦しさにフォーカスして行くというよりは、なにか、フィクションとしての物語に仮託して、未来に向けて上澄みのように苦労を語るというか、そんな機能を果たす場になりえているのかもしれない、などと考えたところである。

 このあたりは、もちろん、今後、もっと整理して語らなければならないところである。

 


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