ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

向井谷地生良 技法以前 べてるの家のつくりかた 医学書院2009

2022-12-28 16:17:20 | エッセイ
 『べてるの家の「非」援助論』に引き続き、医学書院の「シリーズ ケアをひらく」から、べてるの家関連である。
『技法以前』というタイトルに込められた意味はなんだろうか。
技法とは、現在、ふつうに言えばテクニックである。テクニック以前に必要なもの。
 べてるの家をつくったのは、小手先のテクニックによるのではない、ということだろう。それ以前の、人間としてもっと根源的なものの大切さ。

【べてるの家の自助活動】

「浦河べてるの家のルーツは、そこ(=浦河赤十字病院の精神科病棟)に入院経験のある統合失調症などをもつ若者たちが今から三〇年以上も前にはじめた自助活動にある。」(はじめに3ページ)

 ここでいう「自助活動」は、向谷地氏ら専門家の、「非援助の援助」によって支えられた活動である。しかしながら、「非援助論」という書物のタイトルに引きづられてか、現在の新自由主義的な風潮のなかで語られる自助と混同されたこともあったのだろうか、誤解を生じたところもあったという。

「…非援助とは「何もしないこと」という一面的な理解がなされるようにもなってきた。しかし、たとえば『べてるの家の「非」援助論』(医学書院、二〇〇二年)を丹念に読んでいただければわかるように、「非援助の援助」とは、ゆっくりであるが実に手間ひまかけた関係づくりのなかで見出されるものなのである。…「私が育てるのではない。私は見守るだけ」という眼差しの背後には、鋭い観察力と「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想がある(下線部、原文は傍点)。」(はじめに3ページ)

 精神障害者は、囲い込まれ、管理され、服従させられてきた。(いや、「精神」のみならず、障害者はすべからく多かれ少なかれそういう状況に置かれてきたというべきだろう。)

「…「“囲”(医)学=囲う」「“管”(看)護=管理」「“服”(福)祉=服従」という言葉に象徴される精神医療の構造とそれを支える社会を、いかに変えていくか…」(16ぺージ)

 囲い込み、管理し、服従させるということこそ、「してはいけない」ことであろう。

【当事者主権、あるいは、復帰ではなく進出】

「べてるの家では、「治療」を重視したアプローチから、「生きること」に軸足を移した。その象徴が「社会復帰から社会進出へ」というキャッチフレーズである。」(17ぺージ)

 ここでの社会復帰とは、中井久夫が『世に棲む患者』(ちくま学芸文庫)で、「社会の多数者の生き方の軌道に、彼らを”戻そう“とする試み」(8ページ)と語ることであり、社会進出とは、それとはまったく違う試みのことである。障害という経験を有したものが、その経験を隠さずに、場合によっては強みとして社会に乗り出していくということであろう。
 個人の側の心や体を治療して改善して社会に適応させるのではなく、障害を持つ人々が社会進出して社会の側を変えようとすることである。
 べてるの家における自助について改めて引いておけば、経済的に「国や他人の世話にならないこと」ではなく、「勤勉に働いて、自分で自分の運命を切り開くこと」でもないという。

「…一方で、昨今は障害をもった当事者の側からの権利、つまり「当事者主権」としての自助が主張されるようになってきた。それは「私のことは私が決める」という主張であり、市民社会で共有されているその当たり前のことが、障害をもった人たちにおいては侵害されてきた現実からの主張である。
 …当然の権利として福祉サービスやケアを活用する自助である。…社会的なサービスから離脱する自助ではなく、人の力やサービスを利用すること自体が、一つの自助の形として認められる社会である。」(23ぺージ)

 つまりは「医学モデル」から「社会モデル」への転換であり、熊谷晋一郎氏らの『当事者研究の研究』などにおける行論と軌を一にするものである。障害者とは、依存先をひとつないしごく少数しか持たない者のことであり、いわゆる健常者こそ、取り換え可能な複数の依存先を持つ者のことであるというパラダイムの転換、障害者にも、充分な依存先を保障しようとするパラダイムの転換が必要となっている。
 自助のためには、むしろ充分な依存先の確保が必要だということである。

【傾聴は悪?】
しかし、もう一方でこういうことが語られる。

「話しの聞き過ぎは「苦労の丸投げ」をもたらす」(26ぺージ)

 もちろん、話を聴くことは重要であり、向井谷地氏も、そのことを否定するわけではない。

「浦河では、幻聴を現聴—現実に聞こえる声―と理解します。」(79ぺージ)

と、あって、一般の精神科の医療的には、その内容については無視されがちな幻聴についても、当事者の抱える苦労としてきちんと向き合って聴く姿勢が明らかであるし、「ケアの基本は「聴くこと」である。」というカール・ロジャースの「クライアント中心療法」に触れ、さらに、「その「聴く」という行為を臨床哲学の視点から解き明かしたのが鷲田清一氏の『「聴く」ことの力』である。」(86ぺージ)などとも書いている。
 しかし、その鷲田氏の著書を参照した先に書いてあるのが、

「ケアの現場は聞きすぎてきた」(87ぺージ)

 という言葉である。

「「実際に病院に入院したり、通院したりする中で出会った精神科医、看護師、ワーカーは、たしかに熱心に聴いてくれ、自分のことを受け入れてくれている感じはしたが、肝心の“その問題についてどうするか”について解決や解消を一緒に担ってくれる人は少なかった。」
『聴いて欲しい』というなかには、“自分の感情をどうにかしたい”という気持ちにかかわる動機と、“問題を解決したい”という具体的な現実的な対処を知りたいという動機がある。多くの場合、気持ちにかかわる部分はたくさん聴いてくれるけれど、現実的な対処について一緒に考えてくれる人は少ない」(112~3ページ)

「感情の受容はもういいんです」(110ぺージ)

【一緒に考える、あるいは研究的対話】
 向谷地氏があるメンバーに、「私(向谷地)の聴き方の特徴」を尋ねたところ、「”自分で考える“という大事な種みたいなものを奪わないところがいい」(112ページ)という言葉を寄せてくれたという。「一緒に考える」聴き方をしているということのようである。

「一緒に考えてくれる人間と同時に自分が現れる」(116ページ)

「一方的に聞き役に回られると、相手の存在が見えなくなります。相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。」(116ぺージ)

 当事者の「自分で考えてみる」を引き出すために、援助者が伴走して一緒に考える。援助者が当事者と共に弱くなる、共に降りていく、のだという。

「共に考えること、それは当事者と共に現実の困難に連帯しながら。同じ苦労の目線で“同労者”として歩もうとするあり方である。私は、この「聴く」という関係の持つ可能性の一つに、「共に弱くなること」があるような気がしている。…当事者のかかえるさまざまな困難な現実に、「共に降りていく」プロセス…。その…うえで大切なのが「共に考える」関係——研究的な対話関係——である。」(117ぺージ)

 ここでいう研究的なとは、当事者研究でいうところの研究であって、学者が論文を書くためにエビデンスを求めるような研究ではない。

「《研究的な対話関係》は、聞くという行為を、具体的に人と人を結びつける手立てとして役立てるばかりではなく、「悩み」というかたちで個人のなかに取り込まれた生きることの課題を、いま生きている人たちとの意味ある共通のテーマとして時代に開いていく契機となる。」(117ぺージ)

 この対話〈ダイアローグ〉は、オープンダイアローグの対話と通底していると言うべきだろう。
 ところで念のため、傾聴についてひと言補足しておきたいが、向谷地氏も傾聴を否定しているわけではないということである。いわゆるカウンセリングで、社会的通念やら一般常識やら旧来の道徳観念からお説教するなどということは問題外であるし、クライアントの問題をよくよく聞き取ることなしに専門的知識を押しつけるなどということの弊害は大きい。まずは傾聴があって、そこから一緒に考えるという局面に進むという順番は間違えてはいけないところだ。

【中村雄二郎の臨床の知など】
 あとがきで、向谷地氏は、哲学者中村雄二郎の『臨床の知とは何か』(岩波新書)を引いて、
 
「中村は、「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった〈現実〉を捉えなおすために必要な原理として、「個別性」「多義性」「身体性をそなえた行為」の三つをあげている。」(244ぺージ)

と述べる。
 私としては、私が最も大切に思いなしてきた中村雄二郎、河合隼雄、鷲田清一と続く臨床の知の系譜の先に、オープンダイアローグがあり、当事者研究があり、べてるの家があると思っているが、向谷地氏のこの著書に、ここで中村が取り上げられていることは驚きであり、私が学んできた方向に間違いは無かったのだと励まされた思いである。
 ところで、この本では、無農薬・無肥料のリンゴ栽培を成功させた津軽のリンゴ農家木村秋則さんのことも紹介されており、向谷地氏、浦河赤十字病院の精神科医川村俊明氏との鼎談「リンゴのストレングスモデル」も収録されている。たいへん興味深いことである。リンゴと人との深い共通性があるということだろうか。
 また、精神科の薬物療法への批判もある。

「しかし薬物療法への過度の依存は、期待とは正反対の現実を生み出した。…本来、病気に苦しむ当事者の回復や社会復帰を助けるための薬物療法が、多くの場合それを阻害しているというのである。」(41ぺージ)

 これも重要なことである。


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