ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

大澤真幸THINKINGO011「やっぱりふしぎなキリスト教」左右社

2013-08-08 00:05:22 | エッセイ
 著者は、社会学者・大澤真幸のほか、社会学者・橋爪大三郎、聖書学の大貫隆、そして作家高橋源一郎。
 これは、講談社現代新書で、思想系の本としては異例の売れ行きを示したという「ふしぎなキリスト教」(大澤・橋爪)の続編とでも言うべきもの。
 最近の大澤の主要な仕事は「〈世界史〉の哲学」(古代篇、中世篇が、講談社から刊行)ということになるが、その大きなテーマがキリスト教である。現代の資本主義経済とキリスト教といったほうがよいか。
 そのテーマで、新書版で、先輩筋にあたるのだろう橋爪と対談形式で著した本が「ふしぎなキリスト教」ということになる。思想系のほか、キリスト教関係者にもそれなりに読まれたはずだが、その方面の皆さんには評判の悪い本であるようだ。それはさもありなんと言わざるをえない。
 ひとを救済すべき宗教が、どうもそうではない働きをもってしまった、現在の矛盾に満ちた資本主義の世界を作り上げた元凶みたいな位置づけともなるということなので、キリスト教関係者にはどうにも素直には受け入れられないのだろう。
 で、大きな評判を得た本について、語り足りなかったところを改めて、大澤のホーム・グラウンドであるTHINKINGO(オー)シリーズの11冊目として取り上げたと。
 高橋源一郎も、パネラーとして参加、発言しているが、実は、直前に読んだ「吉本隆明がぼくたちに遺したもの」(高橋源一郎と文芸評論家加藤典洋との対談)と、内容が大きくかぶっている。
 どちらも、その過半を費やして、現代の資本主義社会とキリスト教との関わりについて語っていると言っていい。
 マルクス主義とキリスト教はそっくりだし、資本論は聖書であると。確かにその通りだ。
 ぼくらは、いつも聖書を求めてしまうんだな。特に、西洋の哲学を学んで個人主義にどっぷりとつかって、人間形成してきたぼくのような人間は。
 ぼくの読書は、次なる聖書を求める探求の旅であると言って間違いではないのだが、しかし、次なる聖書などはない、というのが現在の到達点であるとも言える。
 正解の無い永遠の問いというポジションにとどまり続ける、みたいな。
 現在の思想系の学者で、社会学の大澤真幸がもっとも脂の乗ったというべきだろうと思うし、小説家では、何と言っても高橋源一郎だと思う。
 小説家として、ここ数十年の時間の積み重ねの中では、村上春樹が、ということにはなるのだろうが、まさしく今現在、ナウ、というところでは、実は高橋源一郎なのだ、と。
 読みやすくて面白く、ためになる本でした。

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