この映画、予告を見て、ぜひ、劇場で観たいと思っていたが、見損ねていた。気仙沼に映画館がないことで、あえて観に出かけなければならない、ということがやはり、それなりのボトルネックにはなる。
先日、めでたくテレビ放映されたので、じっくりと観ることができた。
何と言っても、あの手描きのタッチがそのまま生かされた映像である。なんとも美しい。こんな見事なアニメーションの映像はいまだかつて存在しなかった。高畑勲の最高傑作であることに間違いはないし、世界のアニメーション史上の最高傑作と言っても間違いないはずである。
高畑勲のこころのなかの夢としてのイメージが、そのまま、誰の目にも見える映像としてのイメージとなった、というような。
西方浄土からのお迎えめいた月からの死者、いや使者の奏でる音楽が、和風でも中国風でも、インド風でもなく、パーカッションを多用した南米風の軽く明るい音楽であることは、一般的な先入観を裏切ってここちよい驚きである。
最後に近く共に空を飛びながら象徴的に結ばれる幼馴染に、妻もあり、子どももあること。象徴的には結ばれても、現実には結ばれることがない、悲しく美しいエピソードとなる。
すべてがあくまでも儚く、美しい。
その夜、上の述べたような趣旨をツイートしながら、これまでの高畑作品への若干の違和感を書いた。「これまでの高畑作品は、どこかに「主張の生硬さ」を感じた」と。
一方で、「竹取の翁の最初の台詞が、「私への贈り物」だったこと(私たち、つまり、妻とふたりへのではなく、私と単数だったこと。)に、おや、と思ったが、実は、最後まで、その台詞が効いていた。」とも書いた。
その晩、床に入って、しばらく、映画のこと、私自身が書いたことを反芻していた。
これまでの作品の「主張の生硬さ」というのは、こういうことだ。
「火垂るの墓」は、「戦争の悲惨さ」、「平成ぽんぽこ合戦」は、「都市開発への批判、里山の再評価」、「思ひ出ぽろぽろ」は、「都市化の批判、農村共同体への回帰」というふうにひとことで言ってしまえる。各作品は、シンプルに首尾一貫している。そこに謎はない、と言ってしまえる。
それに対して、宮崎駿は謎だらけである。何が善で何が悪かは、それほど分かりやすくない。善と悪が重層して密接に絡み合って、単純に切り分け出来ない。そこに大きな魅力がある。
高畑の主張は、それはそれで、首肯できるものである。私もまったく同感であるといっていい。とても美しい画面でもってシンプルな美しい主張が表現されている。
そこで、今回の映画の最初の台詞である。
「私への贈り物」。
「私たちへの」ではなく、「私への」。
なるほど、今回の映画は「利己主義」批判である。「個人の利益追求」という昨今の資本主義批判である。
やんごとなき公達たちの贈り物の正体の描き方。
そうか、今回も「ワン・イシュー」であった。
高畑勲というひとは、謎を謎のままほっておけないひとなのかもしれない。明晰な理由を付けないと物語が語れないのかもしれない。なぜ、月の死者が迎えにきたのか、その理由をかぐや姫に語らせている。
私に言わせれば、月に帰るのに理由なんかいらない。原因なんかいらないのである。月に帰るということ自体が荒唐無稽なのであるから、論理的に説明がつくなどということは求める必要がないわけである。
しかし、「かぐや姫の物語」は、そのように明晰に判明するシンプルな理屈にもかかわらず、その表現はあくまで美しい。その美しさをこそ、わたしたちは愛でるべきである。
高畑勲が、物語を語り続ける駆動力としてのシンプルな理屈は立てたとしても、現に描かれたものはさまざまな矛盾に満ち、多様性をはらんでいるわけでもある。
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