菱沼康介の、丸い卵も切りよで四角。

日々の悶々を、はらはらほろほろ。

クククの苦の位置日記 その19

2011年01月24日 09時36分38秒 | 創作捜索日記
編集は絶対的な時間で考えるべきではないのかもしれない。
相対的な感覚も、技術で、鍛え上げていると信じてやるしかないと思う。

絵コンテで作るアニメも実写映画もあるし、CMもそういう時間を決めていくけど、そこにも実は個人的な体感は潜んでいるのではないか。

岡本喜八監督のフォルムを偶数でカッティングするのも、実は体験から生まれた後に理論化されていったのじゃないかな。

先日見たNHKの『サイエンス・ゼロ』で、人の脳は多くのことを無意識に判断し、そのあと意識にあげるのだそう。
無意識が90%だとしたら意識は10%ぐらいなんだそう。
直感は、今や科学で分析されはじめた領域なんだとか。

映画を観る、って、結構その部分多いよね。
90%の無意識に働きかえる何かがある。
もちろん、その無意識を意識に上げてくるものがないと名作にはなかなかならないんだが。
どうも、最近のわかりやすい病は、その意識に上がってくるという要素を重視し過ぎて、観客の直感を疑っているというか、奪っている気がしてならない。

とはいえ、映画は時代を取り込むべきだから、その意識的な部分を取り込むのもまた時代性だともいえるのだが。


直感はすごく説明しにくいものだけど、それを意識以上に形にし鵜rのが表現なのだと思う。
絵や文章や音楽や設計図、撮影、演技や演出として。
だから、直感をただ起こしたような評論は、無意識を無意識の世界にとどめてしまうのだと思う。
意識にまで上げてくれないのだ。
もしくは、挙がっている10%程度の意識をそのまま文章にするようなものとかね。

無意識をつかまえて、そのまま、何かの形を与える。意識と無意識の関係のままに。
それを表現するために、血を吐き、汗をかき、いびきをかくのだ。
そのために、筆を、声を、言葉を、マウスを走らせるのだ。
ぐるぐる、もじもじ、さらさら、いじいじ、ずんずん、とね。













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