『ブロークバック・マウンテン』を観た。
自分が自分として生きられないことの辛さを描いた映画。
でも、おいらはひとつ、気になっていることがある。
「コレはゲイの映画ではない、もっと深い愛の映画だ」と言う人が多いことだ。
コレはゲイについて描いた映画で、だからこそ、自分が自分として生きられないことの辛さが現れてくるのだ、と思うのだ。
そういう言葉こそ、差別を助長していることに気づくべきなのに。
確かに、ゲイムービーだと言わない方がもっとたくさんの観客に観てもらえるのだろうけどさ。
そう思っていたら、監督のアン・リーも、「コレはゲイ・ムービーだ」という発言
をしていたので、腑に落ちた。(FLIXの独占インタビューにて)
他のインタビューでは、普遍的な愛についての映画とも言ってるのもありますけどね。
男女の愛を描いた映画でも、普遍的人間愛についての映画になりえる事はある。
それに、この映画におけるイニスの娘への愛情や、ジャックの妻、両親の愛情はゲイ(社会的、生理的に受け入れづらい個性)というものの周辺にあるがゆえに愛情のありかをはっきりとさせてくれる点では、確かに普遍的な愛についての映画であるともいえるのだけど。
ただ、イニスの娘も一人しか父親の元には姿を見せない辺りに、愛の複雑な側面を感じさせずにいられないのだ。
そういう意味でも愛の多くの側面を描いている映画である。
そういう意味でも、ゲイが現代でも難しい問題である事を理解させられてしまう。
二人の男を中心にして、ミニマルに世界を描く事で、逆にその隠さねばならない社会や、息苦しさを出すことに成功するという離れ業をやってのけたアン・リーは、おみごとと拍手を送りたい。
この映画のテーマ自体がソコに集約するよう映画を描いていくのだ。
そう、この映画は、無限のブロークバック・マウンテンと、その後の有限の生活によって、対比されていく。
そう、ブロークバック・マウンテンは記憶の中にしかない。
現在の閉じ込められた世界とあの自由な世界。
閉じ込められた世界として、タンス、絵葉書、柵、馬運車、窓、車、びく、路地、テント‥‥といったモチーフが描かれることに注目しておくべきだ。
そして、これはなによりもカウボーイ映画なのだ。
『真夜中のカーボーイ』になぞらえれば、『真冬のカーボーイ』とでも言えばいいだろうか。
ブロークバック・マウンテンの自由の世界を、フロンティア・スピリットとみることは出来るかもしれない。
失われていくフロンティア・スピリットとブロークバック・マウンテンは対比されているのではないか?
そうみれば、実は、この映画は失われていくアメリカン・スピリットについての映画でもあると、いえるのではなかろうか。
カウボーイがカウボーイでいられない事について描く。
その偽りの衣を脱ぐことを描く。
だいたい、カウボーイは“武士は喰わねど、高楊枝”的なプライドの高さを持っている。
言うなれば、“カウボーイは寒いけど高イビキ”。
イビキをかけなくなったイニスはテントにも入っていく。
もう一つ例を、カウボーイ・ハットはテンガロン・ハットとも言うが、1ガロンは、3.785リットルなので、あの帽子は38リットル近く入るというのである。
何という大言壮語。
器がデカい、と言ってるようなものである。(商品名らしいので、一概にそうとは言えないかも)
西部では、すでに牛も少なく、馬は車で運ばれる。
羊を護衛する消えつつあるカウボーイの姿こそがこの映画の肝なのだ。
ある意味、この映画はラブストーリー版『許されざる者』。
西部を司さどる王は殺されるしかない。
メキシコの闇に消えるのは、象徴的だ。
西部劇で逃げる先の定番は、メキシコですしね。
羊を殺すのはコヨーテで、コヨーテをカウボーイが殺す。
では、カウボーイを殺すのは何か?
そして、アン・リーは、別のインタビューで、こうも言っている。
「生きたい自分で生きられない苦しみについての映画である」と。
避妊に対することは、宗教に関わる重要事項だ。
イニスの妻は、避妊を進める。
メソジスト派(プロテスタント保守派は「宗教右派」(religious right)と呼ばれ、内部の教義に微妙な差異はあるが、おおむね、セックスの主目的を出産と考え、婚前交渉、避妊を厳しく批判し、中絶や同性愛行為を罪と見なす)のイニスは、より罪を重くする避妊行為に承諾できなかった。
しかし、それが原因(収入問題にも結びついている)で、罪である離婚をすることになる。
ちなみにかじった知識ですが、ジャックはプロテスタントのペンテコスタ派(教義は覚えてないというが)で音楽と踊りに活発な宗派らしい。
しかも、ペンテコスタには、あるカリスマ的修道士が、カソリックのある聖人を改宗させたというエピソードがあるらしい。
その上、財産を神に捧げるところがあるみたい。
(これの解釈次第では、富裕層となったジャックは、富むという罪深さを感じていたことだろう)
※間違いがないといいんですが‥‥。
さて、キリスト教を考えると、ジャックが義父に歯向かうシーンは、実に象徴的だ。
父(ファーザー)は神を指すからだ。
ジャックは、義父(実は父にも)に、直接的に対抗してみせるのだ。
ラストに、イニスはジャックの生家で彼の両親に会う。
寂れた牧場を持つその父と母もまた神とマリアであろう。
父は息子の罪を知っているし、母はただ微笑んで、イニスを息子の部屋へと通し、形見分けをする。
西洋社会における、自分の部屋というのは特別な場所のようだ。
『息子の部屋』や、『マイ・ルーム』など、部屋を聖域化する物語が多い。
ここでも、ジャックの部屋は深い意味を持っているのだろう。
なぜ、妻はジャックの遺品を実家に送ったのか?
そこからも、ジャックの死がゲイであったことで与えられた仕打ちであったと推測させる。
そして、父は家族の墓に火葬した灰を埋葬することを決める。
父性の国アメリカがゲイの息子を認めることの意味深さを感じ取れる。
イニスとジャックは妻たちにも愛を感じていただろう。
それは、社会的安心をくれる存在として。
男とは社会的な生き物である。
自分を社会的にしてくれる者に愛を感じてしまうものだ。
妻はカウボーイにとって、非常に力強い社会的な半身であり、切り離せないもののはずだ。
それは、女性にとってもそうであって、立派な夫は、やはり切り離せない半身なのだ。
だからこそ、イニスもジャックも愛情を返そうとする努力は忘れない。
ただ、性的な問題がそれを阻むのである。
ここで上述した、この映画のテーマである、自分自身の一致という問題が浮かびああがる。
この社会の愛情とは、外(社会)と内(一個人)の一致を阻むものでもある。
仕事と家庭などはその一般的なものだろう。
そういった意味で、ジャックの牧場の夢とは、その一致であった。
この一致のテーマは、同じゲイを描いた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』でも切実に描かれていた。
ある意味、ホモ・セクシャル(同性愛)とは、この一致のテーマの現代に映像的なモチーフになりえているのではないか。
それにゲイというテーマはギリシア悲劇や神話といったキリスト教前の教義に近づいていく傾向がある。
人間の根源的な問題なのかもしれない。
それに、ローマ時代とか衆道は認められていたしね。
あと、日本でも衆道という言葉があるくらいに戦国時代では一般的でもあったらしい。
戦いが日常的な時代では認められていたということは、逆説的に現代とは戦いの時代なのかもしれない。
実際、戦争後のストレスなどを抱えた女性から産まれた子供にはゲイや性同一性障害が発生する確率が高いというデータもある。
そもそもホモ・サピエンスとはそういう生き物なのだろうか?
ホモとはラテン語で同型・同じもの意味。
サピエンスとは“賢い”とか“理性”を指す。
ホモ・サピエンスでは、現生人類の学名。
理性を持ちえた動物。
だが、我々はその名のとおり、理性とバランスをとってくれる同質のものを求め続けるのではないか?
イニスが推測するジャックの死は、かの妻が言うのとは違う死である。
牧場主の男の誘惑がその伏線である。
イニスがそれを知りえるのは、ジャックの言った牧場主の妻と浮気しているとの告白からだ。
だが、牧場主こそが、浮気相手であったはずだ。
しかも、それをイニスは分かっている。
だが、注目すべきは、ジャックはここに来て、自分をヘテロ・セクシャル(異性愛)だと偽ろうとしたかである。
相手の本意と建前の二重性。
嘘は何のためにつくのか?
思いを伝えるのに、直接性を用いないこと。
そこには、何らかの意志が働いている。
ラストシーンに出てくるクローゼットは、隠されているゲイという意味になるそうです。
まぁ、すでに言葉自体が、閉めるのクローズなわけですしね。
そういや、ハリウッド映画に描かれてきたゲイ的なものを紡いだ『セルロイド・クローゼット』という映画もあったね。(セルロイドは、昔のフィルムの材料)
『トーチソング・トリロジー』でもクローゼット、出てきてましたね。
あれも胸に迫る映画だった。元は舞台だそうだけど。
トーチソングは感傷的な失恋歌のこと。
トーチはたいまつ。
どうやら、ある歌の訳詞を読むと隠語で、凛々と立ったペニスも表すみたい。
トーチソング・トリロジー=立ったペニスの失恋歌の3部作の悲劇と訳していいんじゃないかな。
クローゼットの中で燃えるトーチは、いつか火事になってしまうのだろう。
おっと、脱線。
窓や額の向こうに世界が見えるということは、それは見る側が隠れているということにもなりえる。
そう、世界に自分はいない。世界から自分は隠されている。
しかし、逆説的に、そこは自分を守ってくれる場所だ。
その場所に何とともにいる事が出来るか。
それは、一つの人生の答えにもなりえる。
せめてもの救いは、イニスにはそれはジャックとの愛、ブロークバック・マウンテンの思い出があった。
それがその場所を出ても、ありえる世界であって欲しいとも思う。
今回の評のタイトルの“ブロッケン現象”とは、山頂などで、太陽を背にして、霧に向かった時、観測者の影が霧に映り、その頭の周りに光輪が見える現象。
ドイツのブロッケン峰でよく見られるので、『ブロッケンの妖怪』とも呼ばれる。
おまけ。
なぜ、妻の手紙は釣り針につけられたのだろうか?
チェックの白いシャツはイニスのもので、青いダンガリーシャツがジャック。
最後、それが逆にしてかけられているなどの演出の細やかさは嘆息モノである。
宗教が関わると、どうも深いところで、理解を阻んでいる気がします。
知識も必要だし、土地、肉体に根付いた感覚への理解は難しい‥‥。
自分が自分として生きられないことの辛さを描いた映画。
でも、おいらはひとつ、気になっていることがある。
「コレはゲイの映画ではない、もっと深い愛の映画だ」と言う人が多いことだ。
コレはゲイについて描いた映画で、だからこそ、自分が自分として生きられないことの辛さが現れてくるのだ、と思うのだ。
そういう言葉こそ、差別を助長していることに気づくべきなのに。
確かに、ゲイムービーだと言わない方がもっとたくさんの観客に観てもらえるのだろうけどさ。
そう思っていたら、監督のアン・リーも、「コレはゲイ・ムービーだ」という発言
をしていたので、腑に落ちた。(FLIXの独占インタビューにて)
他のインタビューでは、普遍的な愛についての映画とも言ってるのもありますけどね。
男女の愛を描いた映画でも、普遍的人間愛についての映画になりえる事はある。
それに、この映画におけるイニスの娘への愛情や、ジャックの妻、両親の愛情はゲイ(社会的、生理的に受け入れづらい個性)というものの周辺にあるがゆえに愛情のありかをはっきりとさせてくれる点では、確かに普遍的な愛についての映画であるともいえるのだけど。
ただ、イニスの娘も一人しか父親の元には姿を見せない辺りに、愛の複雑な側面を感じさせずにいられないのだ。
そういう意味でも愛の多くの側面を描いている映画である。
そういう意味でも、ゲイが現代でも難しい問題である事を理解させられてしまう。
二人の男を中心にして、ミニマルに世界を描く事で、逆にその隠さねばならない社会や、息苦しさを出すことに成功するという離れ業をやってのけたアン・リーは、おみごとと拍手を送りたい。
この映画のテーマ自体がソコに集約するよう映画を描いていくのだ。
そう、この映画は、無限のブロークバック・マウンテンと、その後の有限の生活によって、対比されていく。
そう、ブロークバック・マウンテンは記憶の中にしかない。
現在の閉じ込められた世界とあの自由な世界。
閉じ込められた世界として、タンス、絵葉書、柵、馬運車、窓、車、びく、路地、テント‥‥といったモチーフが描かれることに注目しておくべきだ。
そして、これはなによりもカウボーイ映画なのだ。
『真夜中のカーボーイ』になぞらえれば、『真冬のカーボーイ』とでも言えばいいだろうか。
ブロークバック・マウンテンの自由の世界を、フロンティア・スピリットとみることは出来るかもしれない。
失われていくフロンティア・スピリットとブロークバック・マウンテンは対比されているのではないか?
そうみれば、実は、この映画は失われていくアメリカン・スピリットについての映画でもあると、いえるのではなかろうか。
カウボーイがカウボーイでいられない事について描く。
その偽りの衣を脱ぐことを描く。
だいたい、カウボーイは“武士は喰わねど、高楊枝”的なプライドの高さを持っている。
言うなれば、“カウボーイは寒いけど高イビキ”。
イビキをかけなくなったイニスはテントにも入っていく。
もう一つ例を、カウボーイ・ハットはテンガロン・ハットとも言うが、1ガロンは、3.785リットルなので、あの帽子は38リットル近く入るというのである。
何という大言壮語。
器がデカい、と言ってるようなものである。(商品名らしいので、一概にそうとは言えないかも)
西部では、すでに牛も少なく、馬は車で運ばれる。
羊を護衛する消えつつあるカウボーイの姿こそがこの映画の肝なのだ。
ある意味、この映画はラブストーリー版『許されざる者』。
西部を司さどる王は殺されるしかない。
メキシコの闇に消えるのは、象徴的だ。
西部劇で逃げる先の定番は、メキシコですしね。
羊を殺すのはコヨーテで、コヨーテをカウボーイが殺す。
では、カウボーイを殺すのは何か?
そして、アン・リーは、別のインタビューで、こうも言っている。
「生きたい自分で生きられない苦しみについての映画である」と。
避妊に対することは、宗教に関わる重要事項だ。
イニスの妻は、避妊を進める。
メソジスト派(プロテスタント保守派は「宗教右派」(religious right)と呼ばれ、内部の教義に微妙な差異はあるが、おおむね、セックスの主目的を出産と考え、婚前交渉、避妊を厳しく批判し、中絶や同性愛行為を罪と見なす)のイニスは、より罪を重くする避妊行為に承諾できなかった。
しかし、それが原因(収入問題にも結びついている)で、罪である離婚をすることになる。
ちなみにかじった知識ですが、ジャックはプロテスタントのペンテコスタ派(教義は覚えてないというが)で音楽と踊りに活発な宗派らしい。
しかも、ペンテコスタには、あるカリスマ的修道士が、カソリックのある聖人を改宗させたというエピソードがあるらしい。
その上、財産を神に捧げるところがあるみたい。
(これの解釈次第では、富裕層となったジャックは、富むという罪深さを感じていたことだろう)
※間違いがないといいんですが‥‥。
さて、キリスト教を考えると、ジャックが義父に歯向かうシーンは、実に象徴的だ。
父(ファーザー)は神を指すからだ。
ジャックは、義父(実は父にも)に、直接的に対抗してみせるのだ。
ラストに、イニスはジャックの生家で彼の両親に会う。
寂れた牧場を持つその父と母もまた神とマリアであろう。
父は息子の罪を知っているし、母はただ微笑んで、イニスを息子の部屋へと通し、形見分けをする。
西洋社会における、自分の部屋というのは特別な場所のようだ。
『息子の部屋』や、『マイ・ルーム』など、部屋を聖域化する物語が多い。
ここでも、ジャックの部屋は深い意味を持っているのだろう。
なぜ、妻はジャックの遺品を実家に送ったのか?
そこからも、ジャックの死がゲイであったことで与えられた仕打ちであったと推測させる。
そして、父は家族の墓に火葬した灰を埋葬することを決める。
父性の国アメリカがゲイの息子を認めることの意味深さを感じ取れる。
イニスとジャックは妻たちにも愛を感じていただろう。
それは、社会的安心をくれる存在として。
男とは社会的な生き物である。
自分を社会的にしてくれる者に愛を感じてしまうものだ。
妻はカウボーイにとって、非常に力強い社会的な半身であり、切り離せないもののはずだ。
それは、女性にとってもそうであって、立派な夫は、やはり切り離せない半身なのだ。
だからこそ、イニスもジャックも愛情を返そうとする努力は忘れない。
ただ、性的な問題がそれを阻むのである。
ここで上述した、この映画のテーマである、自分自身の一致という問題が浮かびああがる。
この社会の愛情とは、外(社会)と内(一個人)の一致を阻むものでもある。
仕事と家庭などはその一般的なものだろう。
そういった意味で、ジャックの牧場の夢とは、その一致であった。
この一致のテーマは、同じゲイを描いた『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』でも切実に描かれていた。
ある意味、ホモ・セクシャル(同性愛)とは、この一致のテーマの現代に映像的なモチーフになりえているのではないか。
それにゲイというテーマはギリシア悲劇や神話といったキリスト教前の教義に近づいていく傾向がある。
人間の根源的な問題なのかもしれない。
それに、ローマ時代とか衆道は認められていたしね。
あと、日本でも衆道という言葉があるくらいに戦国時代では一般的でもあったらしい。
戦いが日常的な時代では認められていたということは、逆説的に現代とは戦いの時代なのかもしれない。
実際、戦争後のストレスなどを抱えた女性から産まれた子供にはゲイや性同一性障害が発生する確率が高いというデータもある。
そもそもホモ・サピエンスとはそういう生き物なのだろうか?
ホモとはラテン語で同型・同じもの意味。
サピエンスとは“賢い”とか“理性”を指す。
ホモ・サピエンスでは、現生人類の学名。
理性を持ちえた動物。
だが、我々はその名のとおり、理性とバランスをとってくれる同質のものを求め続けるのではないか?
イニスが推測するジャックの死は、かの妻が言うのとは違う死である。
牧場主の男の誘惑がその伏線である。
イニスがそれを知りえるのは、ジャックの言った牧場主の妻と浮気しているとの告白からだ。
だが、牧場主こそが、浮気相手であったはずだ。
しかも、それをイニスは分かっている。
だが、注目すべきは、ジャックはここに来て、自分をヘテロ・セクシャル(異性愛)だと偽ろうとしたかである。
相手の本意と建前の二重性。
嘘は何のためにつくのか?
思いを伝えるのに、直接性を用いないこと。
そこには、何らかの意志が働いている。
ラストシーンに出てくるクローゼットは、隠されているゲイという意味になるそうです。
まぁ、すでに言葉自体が、閉めるのクローズなわけですしね。
そういや、ハリウッド映画に描かれてきたゲイ的なものを紡いだ『セルロイド・クローゼット』という映画もあったね。(セルロイドは、昔のフィルムの材料)
『トーチソング・トリロジー』でもクローゼット、出てきてましたね。
あれも胸に迫る映画だった。元は舞台だそうだけど。
トーチソングは感傷的な失恋歌のこと。
トーチはたいまつ。
どうやら、ある歌の訳詞を読むと隠語で、凛々と立ったペニスも表すみたい。
トーチソング・トリロジー=立ったペニスの失恋歌の3部作の悲劇と訳していいんじゃないかな。
クローゼットの中で燃えるトーチは、いつか火事になってしまうのだろう。
おっと、脱線。
窓や額の向こうに世界が見えるということは、それは見る側が隠れているということにもなりえる。
そう、世界に自分はいない。世界から自分は隠されている。
しかし、逆説的に、そこは自分を守ってくれる場所だ。
その場所に何とともにいる事が出来るか。
それは、一つの人生の答えにもなりえる。
せめてもの救いは、イニスにはそれはジャックとの愛、ブロークバック・マウンテンの思い出があった。
それがその場所を出ても、ありえる世界であって欲しいとも思う。
今回の評のタイトルの“ブロッケン現象”とは、山頂などで、太陽を背にして、霧に向かった時、観測者の影が霧に映り、その頭の周りに光輪が見える現象。
ドイツのブロッケン峰でよく見られるので、『ブロッケンの妖怪』とも呼ばれる。
おまけ。
なぜ、妻の手紙は釣り針につけられたのだろうか?
チェックの白いシャツはイニスのもので、青いダンガリーシャツがジャック。
最後、それが逆にしてかけられているなどの演出の細やかさは嘆息モノである。
宗教が関わると、どうも深いところで、理解を阻んでいる気がします。
知識も必要だし、土地、肉体に根付いた感覚への理解は難しい‥‥。
よくまとめる事が出来ましたね、大変だったでしょう、あれもこれも、語り尽くせない繊細な演出の積み重ねですから…
私はこの作品、大好きです。
じっくり読ませて頂きました。面白かったです、感謝。
少しだけ、印象が違っていると思えるところを書きます。
ジャックの妻、ラリーンは、夫がゲイである事は気が付いていて(いつの頃かははっきりしないのですが)、それを受け入れているという印象を持ちました。
彼女は実家の家業、農機具販売会社を切り盛りしていて、仕事に打ち込んでいます。
ジャックはこの方面であまり宛にならないし(笑)、
子供の教育(学校)の事でちょっとした諍いがあったのも、共働き夫婦の典型的な悩みです。
『感謝祭のターキー』を切り分けるシーンで、ジャックが義父に楯突いた事を、心の中では喝采していたし、経済力のある彼女がジャックと離婚もせず(アルマの様にキスシーンを見たわけでは無いからもあるでしょうが)、最後まで夫婦であった事は、世間体という対面を気にしていただけではなく、彼女なりにジャックを愛していたのだと思います。
夫婦の結び付きは、何もSEXだけではありませんから…
ラリーンは遺灰の半分を実家に送ってますが、残りは手元に置いている筈。
いずれ、自分と一緒に埋葬する積りなのではないでしょうか。
意思の強い彼女が、ジャックの死後、消息を尋ねるイニスからの電話(ジャックの死後、どれくらい経っているのかしら)で涙を流すのは、夫が心から愛した人と、同じ愛するものを失った悲しみを共有したかったから(イニスは一言もそんな事はいってませんが)
電話の相手が『ウィスキーの流れる川のある山』で知り合った人だと直感したのだと思います。
この場面では、女の嫉妬心みたいなものは感じなかった。
時間の経過が分らないけど、もうそういった苦しみからは解放されていたのかもしれない。
「牧場主こそが、浮気相手であったはずだ。
しかも、それをイニスは分かっている。
だが、注目すべきは、ジャックはここに来て、自分をヘテロ・セクシャル(異性愛)だと偽ろうとしたかである。
相手の本意と建前の二重性。
嘘は何のためにつくのか?」
これは全く同じ様に受け取りました。
心理面だけで考えると、イニスの心の負担を軽くしようとしたのかも知れない(前後のセリフがもう思い出せないけど…)
ジャックは本当に辛抱強くイニスの変化、彼が自分自身を受け入れる事を待っていました。
この間、何年経ったのでしょうか?
さすがのジャックもイニスとの現実的な将来の展望が持てなくて、浮気に走ったのかしらとも思ってますが、本当に関係があったのかはちょっとまだよく分っていません。
ジャックが故郷での牧場経営を夢見ていたのは、寂れた牧場で、日々老いていく両親の事を慮って、親の希望となるようについた嘘とも思えるのです。
ジャックの母親は、彼がゲイである事は知っていてそれを受け入れていた(イニスがジャックの実家を訪ねた時の母親の様子が全てを物語っています)、
父親も気付いてはいたものの、とても受け入れるわけにはいかなかった。
唯、自分達が年老いていくに従って、少しづつ変わっていたのかも知れない。
ゲイであろうが無かろうが、息子である事には違いないのだから…
イニスがジャックの実家を訪ねた時に、最初と最後では父親の態度が変わります。
これは父親がイニスの中に自分と同じもの=辛抱強い西部の男を感じたのかも知れない。
ここはもう一度観てみないと、はっきりしないのですが…
心理面だけを拾いました。
いつも感想アリガトウございます。
印象の違う点について、私見を。
ジャックの妻ラリーンは弱を夫と言うよりは息子の父として愛していた気がしているのです。
イニスが娘の父でありえている描写の裏返しとして描かれていると見ています。
息子を守る母であれば、電話口でさえ、真実はいえないのではないでしょうか?
それが、イニスがジャックの実家を訪ねたときの母に重なるのです。
そう見るとき、イニスが隠れゲイになるのは、自分もそうですが、ジャックの周囲と娘のことを守ろうという行動であるとも見えてくる。
それは、愛の複雑な側面であると見ています。
浮気相手の牧場主かどうかは不明ですが、ジャックの父は「イニスとは別の名の男と牧場をやるという話を聞いた」というようなことを言っていました。
ここに、皮肉にもイニスを守ったジャックの図と言うのが見えてくるとも思うのです。
イニスをジャックの父はゲイと見なかったの可能性もあります。
そして、ジャックの父が言った「オラもブロークバック・マウンテンの場所は知っている」の言葉の意味に戸惑うばかりです。
これは嘘か?西部への憧憬か?まさかジャックの父も隠れゲイ?
いくつかの見方があるでしょうね。
日本人としては、死んだ身にまで罪を負わせたくない親心を感じ、父親のそれは嘘ではないかと思っています。
そういえば、プログラムのあらすじには、西暦がふってありましたね。
最後の春の逢瀬(1981)に、「次に会うのは11月になる」と言っていますが、その11月に会うためのハガキが次の年(1982)に死亡のスタンプ付きで返還されてきたようです。
あの夫婦には事の他、子供の存在は大きかったと思います。
『子は鎹』とはよく言ったものです。
唯、子供の存在だけでは夫婦は持ちません(笑)
こういった愛情ははっきりと区別できるものではないから…
息子の父として、運命共同体のパートナーとして、どちらの愛情もあったと思います。
電話で真実を言わなかったのは、彼女が真実を知らされていない可能性は無いのでしょうか?
義父はお金持ちで、当然それなりの地位も政治力もある、気に入らない娘婿とはいえ、ゲイパッシングで殺されたとなると、世間体も悪い…
ラリーンは嘘をつく性格には、どうも思えない。
ただし、誰かを庇っているのなら別です。
イニスは両親の死後、兄姉によって育てられ、その兄姉の結婚によって『居場所』を失くした、『自分の部屋』を失ったのです。
ジャックも、イニスと出逢った時の会話から、父親との折り合いが悪い事が分ります。
この時の会話から既に父親も彼がゲイだあった事は知っていたのではないかと思ったのです。
ロデオ会場で、馬の注意を逸らす『ロデオ道化師』にもゲイである事がばれていましたし、
端正なお髭の持ち主の牧場主とも、アイコンタクトが成立していたと思いました(この点、夫にも聞いてみたのですが、何故、ゲイだと分るのか2人とも不思議だねという話に落ち着きました)
父親が気付いていた可能性はないのでしょうか?
これが不思議なことにゲイ同士はなんとなくお互いに分かるそうです。
これ昔、取材したことがありますので。
もちろん分からない例もあるとは思いますが。
ラリーンが事実を知らないと言うのはありえますね。
そうなると、ここにも父の影が現れてきますね。
もう一人の男の行方がまるで語られないのは、牧場主という権力からか。
それとも、本当に事故だったのかもしれないんですよね。
ジャックの父が息子をゲイにだと思っていたかは、もう一人の男の存在があるので、どの時点かは知りませんが、知っていた可能性は強いですよね。
ジャックの正確から考えると、両親にカミングアウトしていた可能性もありますね。
アルマはイニスとの事で深く傷つき、イニスとは違う性格のスーパーの店長と再婚します。(彼女は離婚前から店長と浮気していたと思います)
自分の知らない一面を持つ人との生活に疲れて、ものすごく分りやすい人を選んだのだと思う。結果、電動ナイフでターキーを切る人になってしまった…
私が女だからかも知れませんが、ラリーンとアルマの違いはとても面白かった。
経済格差も大きいのでしょうが…
さて、一番分らなかったことをお尋ねします。
イニスはゲイなのか、バイセクシャルなのかです。
これがゲイの物語と言えるかどうか、大きな所だと思うのですが…
最後のクローゼットのシーンから見ても。だからこそ、ゲイムービーなのでしょう。
ゲイの方々は女性を愛そうとすることの苦しみもつきまとうらしいですし。
実際、原作には、アルマに肛門性交を拒否されるシーンもあるそうですよ。
『独立記念日』に『感謝祭』、
アメリカ建国の精神を象徴する記念日が二つも登場します。
ここはとても重要だと思っています。
心理面からはこれくらいで、違う視点の事は後日、貴方がお暇な時にでもお付き合い下さい。
そういや、ペンテコステてのは、ユダヤ教(五旬節)、キリスト教(聖霊降臨節)と、両方の祝日だそうです。
夏にあるとのこと。
キリスト教では、キリスト復活の50日後に聖霊が使徒の上に降臨したことを祝っているそうです。
プロテスタント派は、倹約や勤労を説きますが、それが、物質的な蓄財を個人消費に当てるのではなく、市場に再投資されるメカニズム=資本主義の発達を支えたとされています。
19世紀、アングロサクソンの旺盛な経済活動を支えたのは、現世に於ける経済活動を教会側が否定しなかったから…
ペンテコステ派が個人財産を神に捧げる事を奨励していたとなれば、他のプロテスタント派からすれば、異端という事になるのでしょうか?(プロテスタント派の個々の教義については殆ど知らないもので)
この時代(1960年代)はどうだったのでしょう。
私には難しくて、手を出せない所です。
映画冒頭、彼は紙袋一つだけで登場します。
お弁当でも入っているのかしらと思っていたのですが(笑)、あれが彼の所持品の全てでした。
アメリカに渡ってきた清教徒の子孫達が、土地への強い執着(財産相続が長子に限定されていた為、個人資産の基盤が土地の所有にあった時代がありました)により、未開地の残された『西』を目指し開拓農民となる、また、ゴールドラッシュに沸く、カリフォルニアやコロラドでの一攫千金を夢見て人々が集まり新しい街が生まれる…
西部劇でお馴染みの世界は、既に一世紀以上も前に『フロンティアの消滅』が宣せられているにも拘らず『フロンティア・スピリット』はイメージとして何度も再生産されて来ました。
イニスは臨時雇いの労働者と殆ど変わりません。
牛の出産時期以外は道路補修のアルバイトをしなければ家族を養っていけないほど、労働条件は恵まれていません。
『アメリカン・スピリット』としてのカウボーイと、決して恵まれてはいなかった現実との落差に、驚愕しました。