五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

本田不二郎先生の「漱石と熊本教育」

2015-03-11 06:01:17 | 五高の歴史


三月十日には週一回の五高記念館に出てきた。朝からは冷たく寒かったがそれはお構いなしで既に二十数年も同じことを続けているので余り感じなかった。折角出て来るのであるので何か記録は残しておくべきであると考えかって全国五高会報に掲載された本田不二郎先生の「漱石と熊本教育」という文書に出会っているのでそれを転載して見た。俺にとって内容は少々重荷に感じたが、転載は数週かかりここに終わったのでその全文書を掲載することにした。手前味噌的なことであるが歯痛や眼の調子がおかしく体調不良で、今度は来週火曜日の出であるそれまで「五高の歴史・落穂拾い」は休載することにした。

漱石と熊本教育             本田不二郎 S10文卒
夏目漱石が三十歳の若さで、熊本の旧制第五高等学校の教授であったころ、第七回開校記念式典(明治三十年十月十日)で教員総代として述べた「夫レ教育ハ建国ノ基礎二シテ、子弟の和塾ハ育英ノ大本タリ、師ノ弟子ヲ遇スルコト路人ノ如ク弟子ノ師ヲ視ること泰越ノ如クンバ、教育全く絶えて、国家ノ元気沮喪セン。」の文言で始まる祝辞は、現在も人口に絵短している。そしてそれは曾て漱石が旧制一高の学生であった頃、次に述べる熊本出身の四指導者によって、親しく熊本教育の薫陶を受け、その真髄を代弁したものとして感嘆のほかはない。

 明治五年の『学制』に始まった近代教育は、欧化主義の思想のもと、知育に偏し、個人的立身出世主義に傾いていたのに飽き足らず、肥後文教の伝統と、水戸学の長所を併せ修めた佐々友房、高橋長秋ら若き熊本城下の人士は西南の役後「方今の学、患器を作って人を造らず」と堂々と正面から批判し、敢えて時代の逆流に立って、私立濟々黌を創立明治十五年二月十一日郷土の師弟に徳体知三育併進『三綱領』による全人教育を施し。いわゆる済々多士の育成を目指した。

即ち「道徳は本体であり、知識は作用である。」と情意の淘治を重視し、道徳と科学の併進を強調し、また『教育は事務にあらず感化なり。教育感化の実を挙げんには、決して生徒の多きを望んではならぬ』と師弟の愛情と信頼を教育の出発点とした着眼は、まことに時流を抜くものがあった。それこそ明治維新の大業には後れを取ったが、熊本旧士族の意地が、当時の逼迫した国際情勢に対する時務感と西南戦争に対する責任感から考案した素晴しい着想であった。

皇室中心の忠孝一本と文武両道の精神を盛った三綱領の教育方針と、簡易素朴・質実剛健の校風は明治二十年当時内外人交歓の社交クラブであった鹿鳴館が象徴した欧化主義の全盛時代に、近く二十世紀を迎えんとし、とくに西方東暫、植民地戦争の鮮烈な緊迫した国際情勢に対応する時局がら、日本教育をどのように方向つけるか、その革新の生きた模範を実地に求めて九州を巡視した文部大臣森有礼の眼に留まり「天下の模範」との高い評価を受け、それが『教育県熊本』の名声の起因となった。また私立済々高の教育精神は、森文相の遠大な抱負のもと、帝都東京の旧制一高と新設同五高の校風つくりのモデルとして採用された。即ち一高初代校長であった森と親しい間柄であった。」そして体育家としてならしていた野村彦四郎を五高初代校長として、一高二代校長には元濟々黌副校長で当時大分県書記官であった古荘嘉門に白羽の矢を立てた。

 古荘はすかさず教頭に東大教授で法学博士の木下広次、幹事に高橋長秋、寮監に守田愿を任命した。即ち首脳部を濟々黌と因縁深い熊本人士で固め全寮制のもと、熊本流の教育を施すことによって、当時帝都における学徒の奢侈柔軟の風を一掃し、かつ元気を鼓舞することに努め、自治と文武両道をモットーとする一高カラーを馴致するに至った。

ことに明治二十一年十月、木下教頭就任に当っての演説では、世に『籠城演説』とよばれ情理兼備った、堂々四千数百言からなるものであり、一高教育の根底を定めた濃い高遠な識見を窺うに足る。また現今の教育革新にとっても、大切なヒントとなるものを多分に包蔵して、温故知新の意味からも貴重である。

 漱石は此の頃親交の深かった正岡子規や菊池謙二郎・・・水戸学に精通した今東湖と呼ばれた明治末より大正にかけて水戸中学の校長と成り全国中学校校長会で、濟々黌五代校長井芹軽平とともに『東に水戸の菊池、西に熊本の井芹』と併称される大物校長であった。一高時代に少荘気鋭の校長として颯爽と森の都に赴任し後世に名立たる教訓を遺すことになった。短期間ではあったようであるが、井芹校長の頃、非常勤講師として招かれ、濟々黌でも教鞭をとっていたことは元日本カーバイト社長奥村政雄の私の履歴書の中にも見出すことが出来る。
‘‘中学時代の想い出の一つは夏目漱石先生から英語を習ったことである。校長は嘉納治五郎であったが、漱石は少壮教授として迎えられ濟々黌の講師も兼ねていた。それまでの我々は英語らしいものを習うに習ったが、漱石によって初めて本当の英語に接したような気がした。しかし夏目先生としては「こいつらに英語を教えてもわかるまい」という気持ちであったのか、英語そのものより、シェークスピア、モンテクリスト伯、ジャンバルジャンの話などをしてくれた。我々もそれが面白いので『先生何か話をして下さい』と頼むと『さて何を話そうか』と10分か15分はそうした話を聞くのが常であった・・云々‘‘

 此の記事を一読するとき、いかにも漱石の開校記念式の祝辞のように、新進気鋭の教師と国家の未来を担う済々多士たるべく学びに励む生徒との間に、師弟の和熟の張っていた様子が窺えるようである。それは漱石が既に一通り熊本教育の精神を理解していた証左であろう。それから井芹経平と夏目漱石は年齢的にもあまり隔たりがなく、井芹は東京高師第一回の卒業の逸材で校長山川浩の知遇をうけた人物であり、普通であれば中央に出て、文部省に籍を置くべき大物校長であった。一方漱石は東京帝大英文科を出ると一年数ヶ月東京高師で教鞭を執っており、恐らく両者は茗渓会員として一脈相通ずるものがあり、漱石は井芹の招きに快く応じたのであろう。

それにしても漱石が、例の『坊ちゃん』で有名な四国の松山尋常中学校に比べて、熊本の教育を如何に高く評価し、誇りをもって赴任して来たかは松山中学での退任の辞の一節でも窺える。
「私が松山を去って熊本の高等学校に赴任するに就いて、これを栄転成りとして祝福する人があるが、私は決して栄転とは考えない。生徒諸子の勉学の態度が真摯ならざる一事である。私はこの一言を留別の辞とすることを遺憾とする次第である。諸子は必ず之に思い当ることがあるであろう。」
漱石は落第点をつけたことでも有名であった。漱石の五高並びに東大英文科の門下生に山形元治が居た。同学部をトップで卒業し、明治38年から昭和15年まで漱石と同様に五高の英語教師をした、

 人聞するところによると、山形の教え方は師の漱石とそっくりで会ったという説があり、赤丸を与えたところまで似ていたようである。そこで山形を通して漱石の教授法を振り返ると恐らく漱石は当時一般に行われていた、一律に講義を聴かせるという注入教育に反対し、なるべく学生に自学自習を奨励し、自らにやる気を起こさせ自分で考える習慣をつける開発主義の教授法を採用していたのであろう。
 因みに時習館訓導で木下依存の教育がすなはち画一的詰め込みを排し個性を生かす開発主義であったので、その点でも漱石は一高時代に校長古荘嘉門、教頭木下広次らの影響を受け、自学自習の習慣をつけるために、予習を重視し、怠惰な学生に赤丸をつけたのであろうその点では山形は私立濟々黌の出身で在り、濟々黌の教育法が開発主義に重んじたことは衆知の通りである。東大英文科をトップで卒業した夏目、山形の師弟の教授法が似ていたのは故なしとしない。

 漱石は熊本時代に文学の土壌を培い、俳句にも豊かな才能を発揮したが、また学生と学校ばかりでなく、家庭でも頻繁に接触し寺田寅彦のように師弟を超えた場合もあった。明治40年40歳のとき東大と一高を辞め朝日新聞社に入社したが彼を招いた「東京朝日」の主筆は池辺三山であり「大阪朝日」の主筆は鳥居素川で共に濟々黌の創始者佐々友房とその生前極めて親交の深かった怱々たる新聞人であった。以上

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