五高習学寮史の編纂について昭和十六年の新入生を迎え全委員張り切って寮生活を開始した予算も寮生一般に公表することにした。生徒課の同意を得て実施した。この年の新入生は四年修了生が多く、そのことが竜南寮が衰えた...
五高習学寮史の編纂について
2013年10月13日 | 五高の歴史
昭和十六年の新入生を迎え全委員張り切って寮生活を開始した予算も寮生一般に公表することにした。生徒課の同意を得て実施した。この年の新入生は四年修了生が多く、そのことが竜南寮が衰えたりという声を起こしている一因であるようだ,四寮日誌には「今年など四年修了、芳紀まさに十七歳と言った連中が多い。浪人中には実力のある人が多い。しかるに入試の結果浪人は多く落第の烙印を押された黄口の四年生が勝利の栄冠に浸る。実際五高は浪人を敬遠し四年を入れすぎる.五高に真の意気と熱がなくなったのはこのためではないか、五高の十年後をうれうと。」
十八年四月より学寮会七部制は廃止され炊事、文化、衛生、寮史の四部制になった。寮史編集部はホール部を併合しして寮史部となった。
十九年九月になり橘高広総代は六〇周年記念事業として編纂の業を起こしている。寮史編纂要項が定められて各部の全委員をこれに当てて努力をつづけていた。
橘総代の檄文を次に掲げる。
「寮史編纂は一日にしてならず、余が六〇周年編纂事業を起こすに当たりて諸兄に言いたいことはこの語である。如何に我々の先輩がこの事業に影響を与えたるか知れば蓋し思いと半ば過ぎるものがあろう。我らが今日の記事を怠ることは、即ち五高の伝統を抹殺し行くに他ならず。口伝に依る歴史編纂は如何に正確を期するも遂に事実と条理せざるを得ず。我等年々新入りの竜南人に伝統を説き明せども変遷を免れず。歴史は常に人類の方向を支持する。事実は常に正しきものを教える。歴史は繰り返すといわれる。時に人類は復古を必要とす。歴史は常に正しき道を照らす。如何なる独創も何時かは形式となり単なる模倣の対象となる。実質は常に形式への道を辿る。特に20世紀の社会に於いて然りと為す。吾人が竜南の生活はかかる弊風を打破すべき底力の源泉地なり。伝統とは歪曲せられたるそれに在らず。正しき伝統の上に立てられた誤れる煉瓦の美は除くべし然らずんば後日崩壊の運命に遭わん。偉大なる建築家はすべてを惰性にして惜しまず。吾人の態度は正にかくの如きか。今や祖国の危機迫る。龍南の現状を以て足れりと為すか?余は竜南最悪の事態を覚悟す。寮史は正に竜南の未来の運命を左右する。我等の任や重く且つ遠し。寮史編纂は我々に真の習学寮を教え。真の伝統への道を開くべし。況や後輩諸兄に於いてをや、迫りつつある竜南の危機、祖国の危機を前にして諸兄の奮闘を望や切に。決戦は近し。一日も早く。昭和十九年九月四日 総代 橘高
上記のように史が編纂される計画であったが実際五高史復刊委員会から復刊されたのは昭和六十三年八月であった。
次に復刊の辞を転載する
われらが母校、第五高等学校が、戦後の学制改革によってその歴史を閉じてすでに四十年近く、昨昭和六十二年には創立百周年を迎え、龍南の地に盛大な記念式典が挙行されました。
この意義深い百周年に際し、私たち有志は、かって五十周年に刊行された「習学寮史」六十周年に刊行された「続習学寮史」が五高の正史でありながら今日ほとんど世に残っていないのを惜しみ、これを復刊して永く後世に伝えたいと思いました。かくて五高史復刊委員会を組織し、百周年記念祭以降、予約募集を開始しましたところ、大方のご協賛を得て、ここに復刊の業ようやく成り、両署を世に送ることが出来ましたことは、。私たちの深く喜びとするところであります。
復刊につきましてはさまざまの困難な問題もありましたが、東京五高会の犬塚勲・西村清敏・樋口俊二・栗原光輝の各氏をはじめ幹事各位、ご寄附・ご予約によってご協賛下さった多数の方々、そして採算を度外視して造本面をお引き受け下さった図書印刷株式会社の小林清会長をはじめ同社の関係者各位のお力添えで完成を見ました。ここに心から感謝の意を表し、ご厚意を後々に伝えたいと思います。 昭和六十三年八月 五高史復刊委員会 重光 武徳(昭和13年文卒 当時史編集部委員長)