十月二日例のごとく月日の経つのは早い、早い,後2か月も暮せばまた年齢を重ねる、それだからこそ世間には100歳以上の者が何十人もいるのだろう、俺もあと十年もすればそんな仲間に入ってしまう、しかしそんなけち臭いことは考えないことにしよう。
五高記念館の広報誌赤煉瓦通信に「五高とおてもやん」という文書を出しておいたが今編集作業に入っているので最後の部分をトップに持ってくるように修正したいのでというお尋ねがあった。
どのようにでも修正してくださいとお願いしておいた。
数ある熊本民謡の中でこの「おてもやん」ほど庶民に親しまれて、口ずさまれて広く全国に知れ渡った熊本の代表民謡である。奔放さ、陽気さ、南国的なおおらかさの中にどこかとぼけたメロディーの繰り返しはこの曲の魅力である。 ご亭どん、ぐじゃっぺ等の土着性の方言が唄の中に散りばめられている。
唄が完成したのは幕末のころと云うのが定説になっている。「玄白なすび」と云うのは蘭学者杉田玄白在世以降である。荒木精之の説では「勤皇の忍び歌」ではないかといい、又単なる「ざれ歌」と云う説をとる学者もいるが定かではない。熊本人特有のユーモアと風刺に支えられ庶民の口から口へ広まっていったのだろう。
記念館の資料を漁っていたところ宗像十郎という生徒のところに以下のような文書に出くわしましたので熊本民謡おてもやんと五高との関係を知る資料かと思い調べてみました。ところで旧制高等学校研究者の小山紘さんの「五高とその世界」には次のように書いてありました。
このように五高は熊本民謡おてもやんにもその昔には関係していたようである。明治26年といえばまだ五高が出来て七年目で、第五高等中学校の時代です
小山紘著「五高とその世界」から おてもやん広めた宗像十郎
「おてもやん、あんたこのごろ嫁入りしたではないかいな」――当時は熊本県内でほとんど歌われなかった民謡「おてもやん」が学内で大流行した。広めたのは、宗像十郎氏で明治26年卒熊本市出身で、どこで覚えたのか、身振り手振りで歌い始め、ちゃめきのある五高生の人気をさらった。技術マンで、八幡製鉄所創立当時に設計の大役を担い、みごと設備を完成させた。その後勅任技師として活躍、製鉄業界発展に貢献している。
五高の卒業生名簿からみえることは宗像十郎について
明治26年2部工卒 八幡製鉄の大功労者、創設当時の優秀な技術者 肥後方言俚謡の「おてもやん」の元祖というべき深い縁故を持っている人である。
明治25年ころには「おてもやん」は市井の間には殆ど口にするものはなかったが、宗像氏はこの俗謡を肥後特有の方言で習学寮を中心として学校で歌いだし、やがてこれが風靡し、今日の隆盛を見るに至ったものである。
五高記念館の広報誌赤煉瓦通信に「五高とおてもやん」という文書を出しておいたが今編集作業に入っているので最後の部分をトップに持ってくるように修正したいのでというお尋ねがあった。
どのようにでも修正してくださいとお願いしておいた。
数ある熊本民謡の中でこの「おてもやん」ほど庶民に親しまれて、口ずさまれて広く全国に知れ渡った熊本の代表民謡である。奔放さ、陽気さ、南国的なおおらかさの中にどこかとぼけたメロディーの繰り返しはこの曲の魅力である。 ご亭どん、ぐじゃっぺ等の土着性の方言が唄の中に散りばめられている。
唄が完成したのは幕末のころと云うのが定説になっている。「玄白なすび」と云うのは蘭学者杉田玄白在世以降である。荒木精之の説では「勤皇の忍び歌」ではないかといい、又単なる「ざれ歌」と云う説をとる学者もいるが定かではない。熊本人特有のユーモアと風刺に支えられ庶民の口から口へ広まっていったのだろう。
記念館の資料を漁っていたところ宗像十郎という生徒のところに以下のような文書に出くわしましたので熊本民謡おてもやんと五高との関係を知る資料かと思い調べてみました。ところで旧制高等学校研究者の小山紘さんの「五高とその世界」には次のように書いてありました。
このように五高は熊本民謡おてもやんにもその昔には関係していたようである。明治26年といえばまだ五高が出来て七年目で、第五高等中学校の時代です
小山紘著「五高とその世界」から おてもやん広めた宗像十郎
「おてもやん、あんたこのごろ嫁入りしたではないかいな」――当時は熊本県内でほとんど歌われなかった民謡「おてもやん」が学内で大流行した。広めたのは、宗像十郎氏で明治26年卒熊本市出身で、どこで覚えたのか、身振り手振りで歌い始め、ちゃめきのある五高生の人気をさらった。技術マンで、八幡製鉄所創立当時に設計の大役を担い、みごと設備を完成させた。その後勅任技師として活躍、製鉄業界発展に貢献している。
五高の卒業生名簿からみえることは宗像十郎について
明治26年2部工卒 八幡製鉄の大功労者、創設当時の優秀な技術者 肥後方言俚謡の「おてもやん」の元祖というべき深い縁故を持っている人である。
明治25年ころには「おてもやん」は市井の間には殆ど口にするものはなかったが、宗像氏はこの俗謡を肥後特有の方言で習学寮を中心として学校で歌いだし、やがてこれが風靡し、今日の隆盛を見るに至ったものである。