古今亭志ん生という噺家さんがいた。
1973年に鬼籍に入った。
資料を見ると1967年の上野鈴本が最後の高座と書いてある。
私が東京に出てきたのは1972年のことだから生では一度も聞いていない。1973年、そういえば志ん生が死んだというニュースをTVで見た記憶がある。
ところで先日図書館でCDを見ていたら、聞いた覚えのない噺の入った志ん生のCDがあったので、それを借りたついでに他の志ん生も少し借りてきた。以来少しずつ借りて来て、あらためて聞き直している。「聴きなおす」と書けという人がいるかもしれないが、私は落語は「聞く」ものだと思う。
メモを取りながら一生懸命聴くという人もいるようだが、そんな事をしていると、志ん生に限っては間違いなく
「お止しよ、そんな野暮は」
というに違いない。そんな気がする。
息子の古今亭志ん朝がまくらで
「えーっ、落語という物はぼーっと聞いていただくのが一番」
というようなことを時々言っていたと記憶する。
落語なんてそんなに一生懸命聴くなよ野暮だな、といっているようで、そこが粋でそこが楽しい。ぼーっと聞いていると何時もどこが新鮮でどこか楽しく聞ける。噺家修行をしようというわけではない。それで充分。ただ話す方は、志ん生も志ん朝も稽古を怠らなかったという話は周辺の人が書いたり話したりして残している。まあ、それをいうのもまた野暮と言うことになるのだろうが。
昔聞いた志ん生のライブ録音に出囃子の「一丁入り」が流れた途端(まだ本人の姿は多分客に見えていない)に拍手が起こり、本人が見えると笑いが起こる、というのがあったが、志ん生を寄席で生で聴いた人によると、志ん生は見ているだけで面白かったという。
私も部屋の電気をおとした寝床でCDを回して目を閉じていると、「一丁入り」が流れた途端、なんとなくにやけくる自分がわかる。そして何度聞いても、同じところで笑ってしまう。もう完全に覚えてしまっているようなほんの小話でも同じところで吹き出してしまう。
やっぱり志ん生は面白い。