「ぼくは猟師になった」

2008-11-30 00:42:01 | Weblog
霜月最後の土日は行楽日和、紅葉狩りのラストチャンスにもなりそうです。
昨年の今頃、高知に暮らす夫の知人が、この時期に釣れるのは珍しいからと鰹を一本送ってくれました。頼みの綱の夫は「素手では怪我をするから軍手をはめておろすように…」とだけ注意をして出かけてしまい、肝心の鰹が届いた時には私がするしかない状況。鯖までは三枚におろせますが、鰹クラスの大きさとなると私の手には余ります。しかし相手はナマモノゆえ夫の帰りを待つわけにもまいりません。まず庭先にブロックを暖炉らしく並べてわらを置き、タタキの準備を。台所の作業台には新聞紙を広げて出刃包丁と一番大きな俎板を出し作業開始。すべてが終わった時には、鰹を食べるどころか当分は見るのも嫌、という気分でした。
「ぼくは猟師になった」(千松信也/リトルモア)。ネットで別の本を探していたところ何故か一緒にヒットされてしまい、ほとんど反射的に購入してしまいました。1974年生まれの著者がどのような過程を経て猟師となったのか(運送会社に勤務することで現金収入を得ていますから、猟師専業ではありませんが)、さらに、獲物を捕えて(彼は罠のみを使用、猟銃は使いません)解体する方法も写真を交えて説明されています。でも、この本は【How to hunter】あるいは【猟師入門】ではありません。この本の読者の何割が猟師という仕事に心を動かされるかまでは想像がつきかねますが、我々が日頃意識することのない「食べる」という行為の大本については、読者は皆考えさせられそうです。狩猟は、食物獲得のため原始から行われてきた手段です。目の前で活動している生きものを捕えて殺し、食物とする。目の前の生命を食べることで己の生命を維持するのは、生きものにとって当たり前の行為です。しかしながら、生きて活動していた時の姿形を想像できないまでに解体
(時に成形)された魚や肉を購入・調理(「調理」すら必要ない場合も少なくありません)する現代日本社会では、「食事イコール生命をいただく」と意識する場面はほとんどありません。魚も肉も野菜も果物も調味料もすべて購入するものであって、それ以前の形状があったなんて考えもしないでしょうし、冷凍食品やチルド食品を見慣れていれば調理とは解凍や温め直しのこととしか思わないかもしれません。そのような人々にとっては、この本の内容は衝撃的なのではないかしら。著者自身は自給自足の隠遁生活を送っているわけではなく、コンビニもバイクも利用しています。ただ、「消費するだけの暮らし」とは一線を画すことができるのは、大きな強みでしょうね。それにしても、世の中、本当に様々な人がいらっしゃいますね。

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