年の瀬〓

2008-12-29 16:27:52 | Weblog
風がやめば小春日和…大掃除、特に外回り方面にうってつけの陽気となりました。ただ、私の気分は未だ師走のはじめ…今年は最後まで、体内時計は暦より一月ほど遅れがちでした(--;反省、です。
【ユーモアは身体への最大の味方である】という意味のことをV.E.フランクルが述べていたそうです(村上和雄の話の又聞きですので、出典は不明)。新しい年が明るく希望に満ちたものとなるか、現時点では心許ないかぎりです。ですが、苦況におかれている時こそユーモアを忘れないように…自戒を込めて、そう思います。
来年は…いや、来年こそは『老後の楽しみ』の和辻全集に手を付けたい。気力・体力・根性等すべてが消滅するばかりですから、今から読み始めなければ寿命が先に尽きてしまいそう(苦笑)。あとはとにかく、暦と体内時計との時差をなくすように努めなくてはいけません。これは急務ですねぇ。


生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光があらわれますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
(慈悲の瞑想 より)

気紛れに書き綴る備忘録をお読みいただき、ありがとうございました。来る年が皆様にとりまして幸多き一年となりますようお祈り申し上げますm(_ _)m

年の瀬

2008-12-26 10:55:21 | Weblog
昨夜から北風が吹き荒れています(--;気温もぐぐ~んと下がっているようですが、これが常の冬というものでありましょう。
FACTAおよび週刊文春の新年号にざっと目を通し、あとは家のことと家業に関することをぼそぼそとやっていて、なかなか「本を読む」ことができません。いや、ドラマの再放送に見入ってしまうせいでもありますか(苦笑)。NHK「フルスイング」のほか、風のガーデンや西洋骨董洋菓子店etc…果ては東海テレビ制作のいわゆ昼メロ。こちらは本日が最終日。ラスト二週間は秘密暴露のオンパレードですし、お約束の立ち聞きや盗み聞きがこれでもかと続き、一体どうやって収拾をつけるのかしら…まぁ、どうでもいいことなんですけどね。
そのような中、辛うじて就寝前読書に「貧困のない世界を創る ソーシャル・ビジネスと新しい資本主義」(早川書房/ムハマド・ユヌス)を選択。これまた一月ほど積ん読にされていた本。バングラデシュで成果を上げてきたグラミン銀行のシステムが、そのまま今の日本の貧困対策に活用できるとは思いません。ですが、その理念や方法に耳を傾けるべきものがあるのでは…。今の派遣や非正規雇用の人々の在り方は、召集令状一枚でで日本軍に組み込まれた人々と重なって感じられるような気がします。この国は敗戦後、人間らしく扱うということをまるきり学習してこないままに21世紀を迎えてしまったのかもしれません。
経団連会長がニュースで映される度に私が悪態を吐くものですから、娘から呆れられてしまいました。ぼやく前に、なすべき事は多々あります。貧者の一灯でしかありませんが、少しでも明るい世の中となる一助であればと願います。

展覧会二つ

2008-12-16 23:25:51 | Weblog
お天気も良いし、占いの結果でも外出は大吉…というわけで今年最後の道楽、展覧会のハシゴをいたしました。
まずは上野の森美術館の『レオナール・フジタ展』。このハコは好みではなく、先年竹橋の近美で開催された藤田嗣治展と比べれば質・量ともに劣ることはハナから予想していたのですが、いやはや…。惚れた弱みがなければ『回れ右』していたかもしれません。今回の目玉は「争闘」および「構図」という4枚の大作と、礼拝堂設計を含むクリスチャンとしての一連の作品。ただ、画家のピークは戦前のパリ時代に終わっていると思っていますし、クリスチャン・フジタは興味がないのですよね。大作にしても、一連の聖戦絵画以外はどうかと思っています。以前に平野政吉美術館へ行った時も、超大作(映画の宣伝みたいですなぁ)「秋田の行事」よりも素描や「チンドンヤ」のような作品のほうが、私の中ではポイントが高かったですから。今日強く印象に残ったのはヴェールを纏ったモンパルナスのキキの素描。個人的にはこれが一番の収穫でした。以前に近美の藤田展を見た友人が「彼は何故あれほど執拗なまでに裸婦を描いたのか」と言っていましたが、藤田嗣治にはもしかしたら
裸婦も猫も同質だったのではないかと今回の展覧会で思いましたね。四半世紀前から追っかけをしてきましたが、もうしばらくは藤田嗣治はいいや…手元にある彼の猫ばかりを集めた画集で十分です。
枯れ蓮で埋まった不忍池にある弁天様に参詣し、伊豆栄で鰻丼を食してから、今度は渋谷へ。JR・銀座線から井の頭線への連絡通路上に展示された『岡本太郎・明日の神話』を見てから、世田谷美術館へ向かいます。かつては用賀から歩いたものでしたが、もはやそのような根性も体力もなく、よしんばあったとしても展覧会のために温存しようと、即刻バスに乗車。ここでのお目当ては『山口薫展』です。小出楢重を連想させる芸大時代の裸婦からパリでの修業を経て、戦争の荒波を潜り抜け(戦病死した同年生まれの靉光と比べると、どれほど幸福な画家人生であったかと考え込んでしまいました)、独自の抽象表現の境地を拓いた晩年までの作品が一堂に会した、なかなかに興味深い内容でした。対象の持つ特徴や属性を削ぎ落とし、幻想的な世界に組み替えているようで、実はそのものの芯を外すことがない…。ある種の芸術家が有する「狂気」が感じられない、たいそう精神が安定した画家だったのだろうなぁと、妙なところで感心してしまいました。
今年の展覧会はこれにて打止め。明日からは年越しの準備に精を出しましょう(^^)v

パンデミックフルー…

2008-12-12 14:39:59 | Weblog
暖かな日が続きます。洗濯日和、大掃除日和、布団干し日和…。干物を作るには、いくらか風がほしいところでしょうか。
空模様とは裏腹に、いまひとつなのが心模様。テレビや新聞を見てはため息をつき、来客が約束時間の30分前に見えて苛立ち(おかげで昼食を摂り損ねました…空腹は苛立ちを倍増させますね)、子供の定期試験の結果を聞くに至っては…ああ、三猿にでもなるしかない(>_<)
さて、現在発売中の「栄養と料理1月号」に、緊急特別企画として【忘れてはいけないパンデミックフルーの脅威】という記事がありました。都会生活者ではないせいか、テレビや新聞で取り沙汰されながらも半ば季節ネタ(インフルエンザ流行の季節ですから)と侮っていましたが、事はそう単純ではないようです。記事中の、食料備蓄に関する提案はたいそう具体的で、参考になります。これに消毒薬やマスク等の医薬関係品やトイレットペーパー等の日用品リストも加えてもらえたら…とは、ムシの良すぎる要求ですね。
ところで、「備蓄食暮らし」で感じたことに【日がたつにつれ葉物の野菜やトマト、くだものなどをむしょうに食べたくなりました】との記述を読み、『南極料理人・西村淳』の本(その八割は新潮文庫より刊行)を思い出しました。南極越冬隊という究極の【備蓄食暮らし】を二度経験した著者のレシピ、結構応用ができそうです。創意工夫もさることながら、一番参考になるのが、著者の前向きさと明るさ。読むだけで楽しくなること間違いなし、の本と言えそうです。
とは申せ、都会の集合住宅に暮らす人々が外出不可となったら、メンタル面および体力面での準備も必要でしょうね。約二ヵ月の間を限られた空間で生活しなくてはならないのですから、足腰の衰えや精神の変調が生じる可能性は十分あるでしょう。よほど気を付けないと、家族間の諍いも普段より増えそうです。都会生活者でなくても、訪問介護・看護を必要とする家族がいたり、定期的に検診・投薬・透析等が必要な人々はどうすれば良いのか…。危機感を煽るばかりではなく、個々の事例に即したきめ細かい対応策もそろそろ提示してほしいと思います。

一本の鉛筆 より

2008-12-08 23:26:08 | Weblog
一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと 私は書く
松山善三『一本の鉛筆』より

8月6日のために書かれた作品ですが、その最終的な始まりは、1941年12月8日ですよね。【人を殺してはいけない】のと、【テロも戦争もいけない】とは、同義と考えたい…。

鍋のこと

2008-12-07 23:43:27 | Weblog
今日、(株)野菜くらぶ・グリンリーフ(株)という団体の人々が栽培した野菜の詰め合せをいただきました。内容は、小松菜・水菜・かぼちゃ・聖護院大根・白菜・ほうれん草・じゃがいも・たまねぎ・にんじん・こんにゃく三種…。夕食はグラタンの予定でしたが変更。早速、水菜と白菜を鍋に利用、ほうれん草はお浸しに、小松菜は油揚げとちりめんじゃこと一緒に煮浸しにしました。味もさることながら、野菜からアクがほとんど出ないことにびっくり…ご近所からいただいたり購入していた野菜って何だったのかしら、と思ってしまいました。システムや料金等についてはこれから調べますが、興味ある団体です。
寒くなると鍋料理がレギュラーで登場しますが、実は私、これが苦手なのですよね。母の献立のレパートリーが極端に少なかったためか、実家の食卓に鍋料理が登場したことは一度もありませんでした。初めての鍋体験は修学旅行先の京都でのすき焼き…。皆が「割り下がない(ご存じのように、関西のすき焼きで割り下は用いません)!!」と騒いでも、私一人、何のことやらさっぱりわかりませんでしたっけ(苦笑)。所帯を持ってからは、水炊き、すき焼き、しゃぶしゃぶ、ちり鍋etc…と一通りしましたが、今でもまだちょっと構えるところがありますね。下拵えがきちんとできればあとは一気呵成、片付けも楽なんですが…。具材を鍋に入れて取り分けて…なんてしていると、空腹であってもどんどん食欲が減退して何も食べたくなくなってしまうからかもしれません。私には、「土鍋でご飯」がせいぜいのところなのでしょう。
師走も早や、一週間が終わります。これから数か月は憂欝な日々が続きます。時間の経つのが早いなら、さっさと春になってほしいものです。

「シズコさん」ほか

2008-12-06 18:00:04 | Weblog
佐野洋子の本を三冊…「シズコさん」、「役に立たない日々」、「神も仏もありませぬ」…並行して読了。多少の時間差はあるものの、いずれも著者60代での出来事のあれこれを綴ったものです。実母の痴呆~最後を看取るまで、自分の病気、北軽井沢での日々や韓流に填まる日々…等々が、読者を意識していないのではないかと錯覚されるまでに率直に語られています。特に圧巻なのが「シズコさん」。菊地寛「父帰る」の、佐野洋子と母・シズコさんバージョンとでも申しますか。シズコさんは出奔や駈け落ちなど特別に何かをしたわけではなく、夫を亡くしてから女手一つで子供たちを大学にやり晩年を施設で過ごしていただけですが、施設に暮らす母との交流や己の病気・老いを見つめる中で佐野洋子が長年抱き続けてきた母へのわだかまりが解けていく様は、読む側に色々な思いを運んできます。特に姉妹ではなく兄弟がいる中での長女に生まれ育った人は、彼女ほどではなくても似たような経験や思いを少なからずしてきているでしょうから、身につまされる場面もあるかもしれ
ません。私自身、この感覚はわかるなぁと思う箇所がいくつもありましたもの。しかし、同時に「物書きの業」のようなものを感じないわけにもいきませんでした。『【100万回生きたねこ】の佐野洋子の親族』ではなく『【シズコさん】の佐野洋子の親族』であることは、読者が想像する以上に重いかもしれません。「な~んもできない」ばかりではなく交通事故のどさくさに紛れて姑を追い出した弟の妻とか、経済的なことは姉に任せきりで「母に優しくない姉をあちこちで吹聴する」妹とか、事実関係はどうあれ、本の形で一方的に公開されては不本意なこともあるでしょう。それでも尚、書く・書かれるのは、親族であるだけに殊更に辛いのではないか、と、それこそ余計なお世話である感想をもってしまいました。
ところで、この三冊は先月末に読んだ「ぼくは猟師になった」と一緒に購入しました。注文の時点では意識していなかったのですが、読み終えてみると、ぼくは~は男性向け、佐野洋子の三冊は女性向けの気がしないではありません。と言うより、佐野洋子のこの三冊に関しては、読み終えて共感・共鳴できる男性は女性よりも少ないのではないかしら。逆に、ぼくは~を読んで刺激を受ける女性も決して多くはないと思うのですが、これは偏った見方でしょうかね。