ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

「大和」を訪ねて

2007-08-14 08:25:35 | 戦跡を訪ねて
広島空港からツアーの観光バスに乗り込むと、程なく映画「男たちのヤマト」の20分ぐらいのダイジェスト版が上映される。終わると皆の顔には感涙の跡がありありである。
 このバスの乗客は皆、映画「男たちのヤマト」をみて感動し、或いは戦没者の関係者である。観光ツアー「大和を訪ねて」二泊三日のご一行様である。若い人はいない。60~70歳代の若くない人たちで女性は僅かであった。
 この中にいる我々3人、職場の同僚が「行ってみようじゃないか」と即決参加と相成ったのである。

 行き先は、呉市、映画のロケ地である。船首から190mまでを実物大で制作し戦闘シーンの殆んどがここで撮影されたもので、封切後もここを公開しているのである。
 大和ミュージアム、江田島・旧海軍兵学校、大和を作った造船所などで、ヤマト尽くしとはこのことか・・・・・

 戦局利あらず、沖縄に向かったが米軍機の集中攻撃であえなく、昭和20年4月7日、1423、北緯30度43分、東経128度04分、東シナ海々底325米に沈んだ「不沈戦艦」の物語である。全長263m、幅38.9m、46センチ主砲を備え、乗員兵3,300人は驚異驚嘆そのものであった。

 数少ない生き残り兵、内田(中村獅童)の養女(鈴木京香)から内田の遺言、遺灰を沈没地点、船と共に沈んだ戦友たちのところに撒くため船を出してくれとせがまれたのが、生き残った特別年少兵、神尾(仲代達矢、松山ケンイチ)であった。
 神尾の心中は、ヤマトに乗り込んだ当時のことが走馬灯のように脳裏を駆け巡る。ストーリーの展開が面白い。当時の上官内田、森脇(反町隆史)、同期の年少兵たちのためにもと北緯120度04分、東経30度43分に病身を押して向かうのである。

 ヤマトを通じて、家族の絆や命の尊さ、人間の尊厳など考えさせられることが多い。こんな時代・事実が60年前にあったのである。今は「ビデオレンタル」にある。

旧海軍基地の町「呉」、ここで「鎮守府」が日本海軍の機関であったことを初めて知ったのである。
 明治4年(1871)から昭和20年11月まで存在していたのである。 奈良・平安時代にも鎮守府があり、そんな昔のことだと思っていたが・・・大宰府なんかと。
 さすが大日本帝國海軍か・・「五省」があった。海上自衛隊にも正規にあるやなしや・・
 一、至誠に悖るなかりしか。 二、言行に恥ずるなかりしか。 三、気力に缺くるなかりしか。 四、努力に憾るなかりしか。 五、不精に亘るなかりしか。
 これが守られていたら、機密漏洩などないはずなのに、いま正に「亡国のイージス」だ。

 お好み村で広島焼き、かき船で牡蠣、原爆ドームをみての「珍道中」も終わった。

 


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