ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

すいとん

2007-08-13 12:29:29 | これってグルメ
 煮だった鍋の味噌汁に、水で練ったメリケン粉をスプーンで一匙づつ入れていくのである。これは食べ物のない時代、敗戦直後(1945)から昭和22年ころまではあったのか。我家でも時々食べたことがあった。おそらく「米麦」がカラッケツ(空欠)であったのであろう。
 これが「すいとん」、漢字では「水団」と書くようだが、字なんかどうでもいい、最低生活者の食べ物に間違いなかった。

 いまだに終戦記念日の8月15日に「すいとん」を作って当時を偲ぶ家庭があると聞くが、これも当時を偲んだ人も偲ばれる頃にともなれば、やがて消えていくだろう。
 私はあの食べ物のない時代でも「まずい」と思った・・・が・・・背に腹は変えられず、食べるしかないのである。ほかに食べるものがないからである。腹に入るものは何でも、「三つ子の魂百まで」いまでも雑物、ゲテモノを食べている。

  昭和30年代に勤務した浅草支社の北のほうに、当時、山谷という町があった。そこに「すいとん横丁」と名付けられていた路地があった。さすがにもう「すいとん」はなかったようだったが、日雇い労務者たちに食べ物を立ち食い方式で売っていて、安価な握り寿司を食べたことがある。
 当時は焼酎一杯(一合)50円位だった。ビールなどには手が届かない底辺の人の最低の酒という感じだった。それから30年、銀座では高級品、「下町のナポレオン」に変遷してきた。
 今でも横丁は名前は残っているかしら、もう東京に行く機会も殆どないが、是非、訪れてみたい所の一つでもある。

 そんな話を若い人(といっても50歳前後)に聞いてみる「知っているわヨ、野菜が一杯入っていて美味しい、好きよ」である。
 驚いたことに、今では各地の屋台村とか居酒屋で具たくさんのいい味付けされたものが500円位であるようだ。料亭ででも提供されているようだが高いんだろうネ。

 30年ぐらい前(1970)か、子ども会の凧揚げ大会で「お汁粉」を振舞うことになった。事務長が経費節減のため「餅」をケチって「団子」にしたのである。子供達はチョット口をつけただった。「不味い」と・・・・(殆んど廃棄処分)・・・

 世は代わり、移ろい、皆昔のことを忘れドッコイ生きているが、折に触れ、スプーンから鍋に落ちていくメリケン粉の団子が浮かんでくる。空腹を忍んでいながら不味かったとの思い出は、まだまだ飢餓とか餓鬼道に入っていなかったことは、これも母が作ってくれたもののお陰だったと偲ばれてくる。

 思い出したので60年振りというか、作ってみたのが冒頭の写真である。シンプルに味噌だけのものであるが「不味くはなかった」がこれは味噌のせいかもと思った。

 人間生きるためには何でも食べる。奇麗ごとでは生きていけないのである。よく見かける風景で、この料理はまずいねと言いながら全部平らげる人、あと一口できれいになるのにのに奥ゆかしく残す人など「氏より育ち」様々である。

 この世に未練はないといいながら、人は欲ばりである。鼻からチューブで食べている。いや食べさせてもらっているのである。



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