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徳山市の南西の沖、フエリーで約40分、約10㎞のところが「大津島」である。そこが「回天」の島である。
訪れたときは、雨が降っておりシーズンオフか観光客も皆無で「回天記念館」も私だけだった。
「人間魚雷回天」は太平洋戦争末期の戦局を挽回しょうと、空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に登場した。海軍の中尉たちが「海軍省」に陳情し人間魚雷が発足したもので隊員は、全長14,5m、高さ1,5m位でどうにか人が座して居られる程度の魚雷内で爆弾を抱え敵艦に命中すべく出撃命令を待った。しかも脱出装置の未開発のままのものであった。
「天を回らし、戦局を逆転させる」願いを込めて命名されたこの艇内で、死と直面している長い時間に如何に思いを馳せたのか、回らせたか。 雨でぬかるんだトンネルを難儀して通り抜けて行くと、回天発射場跡が目に入る。そこにはただ単に残骸でしかない雨に煙るコンクリートの要塞が波に洗われていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/02/02/7f62d6bf5d55283ada2392fb056abac7.jpg)
この発射場は、昭和12年に建設され、93式魚雷試験発射のためのものあったが、 昭和19年9月1日、回天基地が開設され「回天」の操縦訓練が開始された。この訓練は、ここから発射場横の海面に運ばれ、熟練度に従って直線往復、島の半周、一周、停泊船襲撃、航行艦襲撃などと搭乗員は猛訓練に明け暮れたのである。それは終戦の日、昭和20年8月15日まで続けられた。
訪れたときは、雨が降っておりシーズンオフか観光客も皆無で「回天記念館」も私だけだった。
「人間魚雷回天」は太平洋戦争末期の戦局を挽回しょうと、空からの「神風特別攻撃隊」とほぼ同じ時期に登場した。海軍の中尉たちが「海軍省」に陳情し人間魚雷が発足したもので隊員は、全長14,5m、高さ1,5m位でどうにか人が座して居られる程度の魚雷内で爆弾を抱え敵艦に命中すべく出撃命令を待った。しかも脱出装置の未開発のままのものであった。
「天を回らし、戦局を逆転させる」願いを込めて命名されたこの艇内で、死と直面している長い時間に如何に思いを馳せたのか、回らせたか。 雨でぬかるんだトンネルを難儀して通り抜けて行くと、回天発射場跡が目に入る。そこにはただ単に残骸でしかない雨に煙るコンクリートの要塞が波に洗われていた。
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いつでもヤメターと言えるか否かの違いです。