ランダムなまず庵

 何事にも一寸手を出すが人並みに出来ず、中途半端なその日暮らし・・何でもありの風来ブログ、暇にまかせて「庵」ってます。

労い(ねぎらい)

2007-08-15 09:30:01 | 戦跡を訪ねて
 昨年の今頃、NHKの放映で見た一シーンがありました。今年も再放映されました。「取り残された民衆・・元関東軍兵士と開拓団家族の証言・・」です。

「あんた方は嘘を書いている、本に! 逃げたのではない、撤退したんだ、後退したんだ、天皇陛下の命令でどうしたこうしたと・・・・」
 満蒙開拓団の引揚者山村文子達は、四谷の郷友会館とかに呼び出しを受け、残留孤児の問題を考えてくれるのかと、喜び勇んで来てみたら、開口一番こう言われた。椅子も進められず立ったままで・・・帰ってきた。関東軍は負け方が下手だ。逃げたということは、それは仕方ないことで、あっさりと認めればいいではないかと思うんです。

 そのお方は、関東軍作戦参謀草地貞吾氏でした。これらは殆ど間違いのない放映の中の言葉です。昨年と今年の同じものを録画し書き出したものです。

 こんなことがあったのかと調べてみると手記があることが分かり、県内の図書館から検索し取り寄せました。

「関東軍作戦参謀 草地貞吾回想録」を読後、心に残る名文の抜き書きです。注釈は付けていません。筋の流れを理解ができないときは、昭和一桁生まれあたりの人に聞いてください。テレビを見られた方には理解できるのでしょうが・・・・

 明々白々と信号弾でも打ち上げるような居留邦人の移動などは、静謐確保という重大な任務の前には手の下しようがなかったのである。また実際に移動させる場所もなかった。

 この際仮に国境地帯の居留民を後退させたとしたらかえって誘い水のようにソ連の攻勢を誘発する恐れが少なくなかった。

 退却、撤退ではない 作戦なのだ 移動だった・・・・・

 日本が犠牲になって、大東亜十億の民衆を解放した義戦である。大東亜の真の歴史は、日本が犠牲になった大東亜戦争から発端しているともいえる。この自覚を忘れ、日本を否定し大東亜戦争を否定する人間は、永久に白人の奴隷となろう。

 終戦前後、在満邦人が極度の悲惨に遭遇したことに対しては、何とも申しあげる言葉もない。何故に居留民よりも速やかに後退したのか・・・・とただされれば、それは一つ、作戦任務の要請であったと答えるばかりである。

避退を拒否した居留民(と題していたと思う)
 「軍の家族が第一列車に昨夜乗り込み、本朝出発しました。あとは、逐一やっています。」「なぜ、軍の家族をイの一番に出したのだ。」「長年住みついた邦人というものはなかなか腰が重く、どうしても今晩などには乗車することはできないという回答---結局、輸送の定量と列車数は決まっているでしょう。だから、軍はしかたなく警急集合の容易な軍人、軍属の家族をまず輸送し、準備できるにしたがって一般市民や国策会社の社員等を循環輸送するようにしたんですよ。」

 昭和20年8月10日の午後二時頃ちょっと我が家に立ち寄った。それは遠からず、どこかへ立ち退くであろう家族との袂別でもあった。・・・・・幼い子供五人を引き寄せ、かき抱いた妻は・・・・

 ソ連抑留中の昭和27年通信を許されての息子からの「家族の消息、引き上げの途中で言い知れぬ苦労をし、母、貞義、静子の三人は発疹チブスにかかり死んでいました。・・・・姉弟三人心を合わせて頑張りますから心配はいりません。」・・・・・・・

 私が言いたいのは、立場こそ違え、皆が苦労し耐えてきた筆舌に尽くし難い地獄もかくあらんかの経験をしてきたのです。責任の擦り付け合いはさておいて、
せめて一言、大変でしたねと、強いて言わせてもらえれば椅子を勧めて座って貰い、お茶の一杯でも出してあげてもと

 更に強いて言わせてもらえば、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ・・・」死ねと命じた訓令「戦陣訓」を示達した陸軍大臣東条英機本人が自殺未遂、絞首刑になったのです。これを聞いた、捕虜になり戦後恐る恐る帰還した兵士が「これで負い目が軽くなった。」と述懐しているのを聞いた。
 草地氏もソ連抑留、中国を経て昭和31年頃か帰国したようです。過酷な拷問に屈しなかった唯一の人物だと評価されているようです。
 「戦陣訓」は兵だけのものだったのか・・・泣く子も黙る関東軍、開拓団には世界最強の関東軍がついている・・・作戦任務、要請であった・・では・・・何とも遣る瀬無いことです。

 私は呆ける(認知症)まで毎年、8月15日には、こんなことに拘り続けることになるでしょう。
 こんなことが放映される自由が「平和」だと気付かない人が一杯いる。そのうち、今度は元日本国中を彷徨い歩くことになるかも・・・・・・

 因みに
 山村文子氏は引き揚げ時1歳半の子供を亡くし、残留孤児の支援などをされているようで、著書「父と母よ我が祖国よ 中国残留孤児の手紙」があるようです。
 草地貞吾氏の妻と幾人かの子は引き揚げ時亡くなっているようです。
 


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