「人間万事塞翁が丙午」故青島幸男の直木賞作品を思い出し図書館で借りてきて読んでいた。
今日は3月10日、東京大空襲の日である。昭和20年、B29の襲来により、完膚無きまで空爆され、これまで半年にわたり空襲を受けていた東京下町は焼け野原となった。都民10万人以上が焼死した。63年前のことである。合掌
文中、丁度、この空襲の場面の記事に直面した。奇遇と言えば奇遇である。
主人公ハナの、日本 . . . 本文を読む
毎朝、卵2個を使い卵焼き(japanesse omlet)目玉焼き(sunny-saide egg)炒り卵scrambled ham-egg)などを作っている。ダシ巻きなどは作れない。
夜は早く寝るので、5時起床を心掛けている。冒頭の写真は朝食の定番である。チョット不味そうであるがマアマア食べられる。食べないとしょうがないのである。
ラップ冷凍の茶碗半分の白飯を3分間半のチン!、納豆一つ、 . . . 本文を読む
篤姫(天璋院)は薩摩藩から13代将軍家定に嫁いだ。江戸まで陸路、海路かでおおよそ60余日を要した。
孝明天皇の妹和宮(静寛院宮)は京都から中山道を経て25日間で江戸へ、14代将軍家茂に降嫁した。いずれも駕籠である。乗っいるだけとはいえ大変だったろう。
溥儀の弟溥傑に嫁いだ華族嵯峨侯爵家の浩、朝鮮王国に嫁いだ皇族梨本宮家の方子、二人は船で行っただろうから精々、4、5日だったろう。
唐の国の . . . 本文を読む
とうかかんせい、夜間、敵機の来襲に備え、減光、遮光、消灯をすることで標的にならないためにである。日本の都市部であった。
昭和15年以降の生まれの人は知らないと思うが、昭和20年8月15日までこれがあったのである。
空襲警報が発令されると、部屋にある電球の笠にセットされている黒色の蛇腹を下し遮光する。なんのことか解らないと思うので、冒頭に図示する。少しは解った?ちゃぶ台に直径30センチ位に . . . 本文を読む
吹けば飛ぶよな 将棋の駒に 賭けた命を 笑わば笑え・・・ 村田英雄である。
将棋の駒「歩」は兵隊でいえば最前戦線で矢面に立って戦う。
お前たちの命は鴻毛より軽い! 鴻毛とは、鳥の羽毛のように、別に吹かなくても舞い上がる極めて軽いことの譬えである。
「玉砕」「特攻」などで使い放題、お得意の人海戦術がドンドンとエスカレートしていった。
貴様らの代わ . . . 本文を読む
本家の仏間に掲げられている額入りの写真、祖母は「義勇軍に行って死んだ」と言っていたが特に気にもすることがなかった。
私が小学3年の昭和23年頃の三回忌法要の写真が残っており、混沌としていたあの時代にシベリアから戦死の公報が届く筈もなく今にして思えば、不思議なことである。・・・・・・・・母の弟、叔父の写真である・・・・・・・
あれから50年、定年後の職場で見た一冊の「満蒙開拓青少年義勇軍」の . . . 本文を読む
帰郷達せず 徴兵年齢が19歳に引き下げられたことから、召集になる前に故郷に一度帰りたかったが、昭和18年暮れころから、関釜連絡船(下関~朝鮮の釜山)が魚雷攻撃で沈没している状態であり、帰国しても応召出来なくなるおそれのあることからこれを断念した。
開拓地の草原に寝転び、偲ぶは故郷の「真菰池」の蜜柑畑であっただろうか、昭和18年11月ころ、朝鮮羅新(満州との国境近く)の「満鉄」に . . . 本文を読む
この道路は誰が名付けたか渡満道路と言われている。
満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所での訓練を終了した86,630名が満州に向け銃に擬えた樫の鍬の柄を担いで行進した「渡満道路」である。
叔父も、昭和15年(1940)6月14日、満州開拓こそ聖業と信じ「五族協和」「王道楽土」を夢見て出発した。
大東亜戦争(太平洋戦争)が勃発、戦況は日々に厳しくなり、関東軍の主力が南下し、ソ満国境に配置されていた . . . 本文を読む
頑張って行ってきます! 14才4ヶ月の叔父は、昭和15年3月26日、故郷の駅で両親兄弟に見送られ、二度と再び帰ることのなく、「内原訓練所」に向かった。
満州で現地関東軍召集・終戦・ソ連連行・強制労働・ザバイカル州にて病死したことから、その軌跡を求めるため、先ず、茨城県茨城郡内原町を訪ねた。平成11年6月のことであった。
この義勇軍は、満州を建国した日本がその防衛強化と集団開拓の補強手段とし . . . 本文を読む
昭和17年(1942)東南アジアに侵攻した日本軍は、インドネシアを統治していたオランダ軍を降伏させ、以後3年間統治した。日本敗戦後再度占領しょうとしたオランダ軍に対するインドネシアの独立戦争があった。
昭和20年、太平洋戦争終結後もインドネシアに残り独立戦争に参加した日本軍兵士約九百人中六百人が戦死したともいわれている「ジャピンド(Japind)」、帰国のチャンスもあった彼らは望郷の念は高ま . . . 本文を読む
父の遺品となるのでしょうか、写真の「奉公袋」は我が家のお宝です。戦前の父は滅私奉公、いつでも応召できるよう、軍人勅諭、遺髪用の頭髪など入れていたのです。心臓が悪く、兵隊検査も丙種合格で終戦まで召集はありませんでした。 昭和19年頃は病人まで召集されていたのに運がよかったといえば非国民なのでしょうが。
これは、昭和25年頃にタンスの奥にあったのを私が見つけたものです。袋の裏には「収容品 軍隊手 . . . 本文を読む
餞別を貰ったことのない人、あげたことのない人は、まずいないと思います。餞別とはご存知のように、「餞」はなむけ(「馬の鼻向け」の意。旅立つ人の馬の鼻を行くべき方へ向けて見送った習慣による)旅立ちや門出に送る金品のことで、祝儀袋に幾許かの紙幣を入れて渡す、裏金から抽出されることもあるようで、この祝儀袋は重いようです。食偏の餞が正しく、間違えて金偏の銭を書く人もいます。
一般的には、転勤時にこの餞別 . . . 本文を読む