何気なく格言の本に目を通していたら「決して時計を見るな(エジソン)」があった。
高校に入ったとき、「腕時計」を買ってもらった。月賦で・・・一駅の汽車通学であったのでどうしても必要であった。
以来、毎日一回のねじ巻き、自動、アラーム付き、分解掃除、日に2、3分狂った。その後はクオーツ、デジタル、電話番号メモリー、文字盤も夜光とか発光とかで夜勤で仮眠の時には重宝してきた。電池交換などもたまに . . . 本文を読む
天璋院展を見たついでに、50年前に勤務していた浅草へ足を延ばしてみることにした。
墨田区石原にある白波五人男で有名な日本駄(左)衛門首洗い池と碑文がある神社に立ち寄った後、歩いて吾妻橋際に来た。
アサヒビールのウンコを仰ぎながら、もう午後1時を過ぎており、ここで軽くビールでもと思ったが、目指す天丼屋もあったので我慢して吾妻橋を渡った。
バスで吉原大門へ、老舗「天麩羅伊勢屋」は満席で断 . . . 本文を読む
昨年の今頃開催された「江戸城展」を見逃した。
今年は「篤姫展」が4月6日まで開催されるので、混雑する前にと、江戸東京博物館に出かけた。久し振りの「上京」である。
10時から2時間半ぐらい見て回ったが、結構混んでいて、興味深い数多くの展示の手紙なども何んとか読み通すことができたが、これ以上混んでくるとダメだったと思う。車椅子の人もいたが、殆んど見れなかったであろう。
おそらく来週は満員御礼 . . . 本文を読む
冒頭の写真のようなものが、小学校などの片隅にある。使われているのだろうか?「ひゃくようばこ」と読めるのだろうか?
温度計、湿度計などは備え付けられており、定時に測定するようだが、やっているのかいないのか定かでない状態である。
地上高さ1.5m前後、扉は北側に(開けた時に日光が差し込まない配慮か)白塗りの鎧戸で地面は芝生が一般的であるようだ。
これが驚いたことに、現在でも10~20万円で . . . 本文を読む
冒頭の写真は、生誕百日のものである。昭和15年1月15日頃のものか、姉妹弟のものもそれぞれある。
満一歳の昭和15年10月頃のものもある。全部写真館での撮影である。
私も母に習って、子供の百日、一年目をマイカメラで撮影してあるが、孫の親たちは、今はもう、デジカメの氾濫普及で撮り放題、整理などなく無差別に何百枚も撮りまくっているだけの感がする。
下の子が生まれると上の子は年齢の半分以下 . . . 本文を読む
一般には「ドント焼き」というらしいが、我が田舎では「とんど」と言っていた。小中学校時代の思い出である。
1月14日に門松、注連縄などを集めて焚き、その火で鏡餅などを焼く。そういえば「書き初め」を火にくべて高く舞い上がると習字が上手になるとかでやっている者もいた。
一年生の1月になると召集がかかる。とんどの薪づくりである。村の山に行き、1把がノルマである。二年は2把・・・・取り仕切りの中3は . . . 本文を読む
「元え!」
最近ではあんまり聞かないと思うが、軍隊などではよく使われていたのでは・・・・やり直し、言い直しをすることで、例えば、整列して上官が「番号!」「1・2・3・・・」つっかえたり、間違えると「もとえ!」でやり直しである。訛ると「もとい」でからかわれたものだ。
発表などをするとき、言い間違えたりすると「もとえ」と元に戻すことがあった。これが結構癖になるのである。もとえ、もとえ、もとえの . . . 本文を読む
最近はあまり聞かない言葉に「結核」がある。
数年前からあちこちの学校や病院から集団感染、発症の報道があり注目された。
江戸明治時代にもあったが、昭和30年頃までこれで死ぬ人が多く、不治の病だとされていたが、ストレプトマイシンなどの抗生物質の登場により、また食料事情、栄養もよくなり格段に減少した感があったところだが根強く生きているのだ。
昔は労咳(ろうがい)と言っていたようで、天保水滸伝 . . . 本文を読む
30年程前か、出張で行った英国の帰りの2週間、ヨーロッパを駆け足で廻った。
スペイン、フランス、スイス、西ドイツ、オランダ、イタリアか、そこでナポリ湾である。
これがかの有名な紺碧の海なのか、ナポリ民謡かカンツオーネか、もう死んでもいいとは思わなかった。
湾の絶壁の道路を観光バスはクネクネ進んでいく。そしてナポリ・ポンペイの遺跡めぐりである。確か昼食にオーソレミオの生伴奏付きでマカロニ . . . 本文を読む
生まれは「豆腐町」、5歳まで育ったのが「紺屋町」である。
世界遺産の城下町でのことである。まだこの町名が残っているかと、ネットで調べたらあった。あれから60年、私の記憶に残るおおよその位置にあったのである。父と蝉や虫取りをした堀はもうないが・・・・
ついでに調べてみたら、鍛冶町、綿町、米屋町、塩町、材木町、呉服町など町民がそれぞれの専門分野を城下で営んでいた町の名である。
今は秋葉原は . . . 本文を読む
左足の親指である。豚足ではない、誰のものでもない、我がものである。
歴とした我が身体に68年付き合っているものでもある。
何時の頃か、小学生の頃か、この指に爪がないことについて聞いたのか、聞かされたことがある。
生れて間もなく、異常に泣いたそうだ。不審に思い身体を調べたところ、足の指の爪が剥がれ腫れていたので、これが原因と分かったという。何かの拍子にか剥がれたようだ。
そんなことで . . . 本文を読む
昭和35年前後のことである。当時住んでいた浅草の独身寮で一杯やったほろ酔いの連中が誰ともなく行こうということになり、ブラブラと歩いて吾妻橋を渡った。渡ってすぐ左の吾妻橋アサヒビヤホールに入った。
煙草の煙が濛々としているホール、大ジヨッキと焼き鳥などをを注文し、ワイワイガヤガヤ話し声など聞こえない。そしてまた歩いて帰るのである。
今はウンコビールなど昔の情緒など微塵もない。現代風に、高級 . . . 本文を読む
学芸会で、浦島太郎を竜宮城に案内している「亀」を思い出す。これは60年前の私である。(昭和23年)
かけ足も遅かったので、あだ名に「カメ」が付きそうだったが何とか遁れたことを思い出す。
あれから50年、時は移ろい、数年だけの第二の職場は「亀戸」であった。JR亀戸駅近くの公園に親ガメの上に子ガメその上に孫カメの「羽亀」がある。そこを通って外廻りに往来する。
当時の四季の写真とチョットした遊 . . . 本文を読む
次は自分たちの番だなァーと口にこそ出さないが、胸に思うのは同じではないだろうか、ノーテン以外は・・・である。
そろそろ届く時節になったか、「喪中のため・・失礼させて・・」例年今頃になると届く中に「母(父)永眠いたしました・・」である。その方を知っていても知らなくても、我が余命の「少な死」を、おっと誤変換だ。
つい思う、母親の三回忌を済ませたばかり、七回忌はできるかナー
・・・子が . . . 本文を読む
「後の祭り」祭りのすんだ翌日に山車(だし)を出しをたことから、時機を失した、手遅れのことをいうようだが、単純に祭りの済んだ翌日、神饌(お供え物)を下して宴会をすることの意もあるようだ。
私の隣のおじさんは・・・ワッショイワッショイ ソーレソーレお祭りだ・・・お祭りすんで日が暮れて 家を焼かれたおじさんと ヘソクリとられたおばさんと・・・いくら泣いても後の祭りょー(お祭りマンボ) 美空ひばりで . . . 本文を読む