年をとるってことは、いろいろ考えるってことですよね。
時間はすべての人に平等に過ぎていって、だれも不公平がないんですよね。
やから、時間をどうつかうか、どう年をとってきたかってことは、自分の責任のわけです。
まあ、運命っていうか、自分でどうしようもない出来事が降りかかってくることも多々ありますが、そのときの対応や選択も含めて、自分で進んできたわけです。
この年っていっても、もっと年配の方もおられるし、その方々からしたら、わたしはまだ若い、何言ってるんだ?って思われるかもしれませんが。
まあ、女47歳、もうじき48歳になると、人生でいうと、上り坂を過ぎて頂上をすぎて下り坂に入ってる、そう今は下っていってるわけですね。
で、下った先のことも常に考える年なわけです。
自分で自分のことができるうちはいいんですよね。
努力したらできるってことは、ほんとうに感謝で、幸いで、すばらしいことです。
でも、自分でどうしようもなくなる、そういうときが必ず来るわけです。
自分以外の方々にお世話になってしか、生きつづけることができないときがくるわけです。
でも、大きく考えたら、生まれて死ぬまで、人間は一人では生きられないもので、常に助け合いながら生きているわけでもありますが。
よく、年をとったら、長患いせずに寝たきりになって他人様に迷惑かけずに、ぽっくりと死にたいと言われますが。
これほど、傲慢なことはないですね。
そんなこと、病気で長患いしている父親や介護している私から言えば、何言ってるんだ、何傲慢なこと言ってるんやと思います。
そんなこと、神さまでしか決められないし、自分で望むものでもないですもの。
長患いして、ぽっくりいかなくたって、他人様に迷惑かけて長生きしたって、いいじゃないですか。
それでも人間は生きる意味があるんです。生きていく必要があるんですよ。
それは神さまが生かしてくださってるからなんですよ。
自分の力で生きているなんて傲慢なこと考えてると、間違った方向に行ってしまいます。
テレビでいろんな人が、寝たきりにならずにぽっくり死にたいとか、寝たきりで長生きしたって意味が無いなんてことを、平気で言ってますが。
その言葉を聞くたびに、腹が立ってきます。
まあ、そういう人たちをも、神さまは赦されておられますけどね。
いろんなことを考えると自分の中でも矛盾があります。
人には厳しく自分に甘く、総論賛成各論反対、まあ、そんなことばかりです。
頭の中では、いろんな感情がうずまいています。
その時々で気持ちも考えも180度変化しています。
まあ、人間ですから、それも当然かもしれません。感情の動物ですから。
人間感情が先で、理屈は後でひっつけるものです。
私は今が一番幸せです。
この先のことは考えられません。いや、考えていますが、考えたくない気持ちもあります。
考えるとドツボにはまることもあります。
考えても、どうにもならない方向へ進んでいくこともあります。
この先のことは、不安でたまらないですが、自分でできることはやって、あとは神さまに委ねるしかないことです。
風に乗って舞う鳥の羽のように(フォレストガンプという映画に出てくる映像です)、神さまに持ち運ばれて行く人生を送ろうと考えています。
そのときどきで、不安や不満や憤りや悲しみや苦しみ、いろんな事にでくわすわけですが、すべてを益にしてくださる神様にゆだねて生きることができますように。
最後は、お祈りになってしまいましたm(_ _)m
いろんな考えは、結局は、最後は祈りになるのかもしれないですね。
時間はすべての人に平等に過ぎていって、だれも不公平がないんですよね。
やから、時間をどうつかうか、どう年をとってきたかってことは、自分の責任のわけです。
まあ、運命っていうか、自分でどうしようもない出来事が降りかかってくることも多々ありますが、そのときの対応や選択も含めて、自分で進んできたわけです。
この年っていっても、もっと年配の方もおられるし、その方々からしたら、わたしはまだ若い、何言ってるんだ?って思われるかもしれませんが。
まあ、女47歳、もうじき48歳になると、人生でいうと、上り坂を過ぎて頂上をすぎて下り坂に入ってる、そう今は下っていってるわけですね。
で、下った先のことも常に考える年なわけです。
自分で自分のことができるうちはいいんですよね。
努力したらできるってことは、ほんとうに感謝で、幸いで、すばらしいことです。
でも、自分でどうしようもなくなる、そういうときが必ず来るわけです。
自分以外の方々にお世話になってしか、生きつづけることができないときがくるわけです。
でも、大きく考えたら、生まれて死ぬまで、人間は一人では生きられないもので、常に助け合いながら生きているわけでもありますが。
よく、年をとったら、長患いせずに寝たきりになって他人様に迷惑かけずに、ぽっくりと死にたいと言われますが。
これほど、傲慢なことはないですね。
そんなこと、病気で長患いしている父親や介護している私から言えば、何言ってるんだ、何傲慢なこと言ってるんやと思います。
そんなこと、神さまでしか決められないし、自分で望むものでもないですもの。
長患いして、ぽっくりいかなくたって、他人様に迷惑かけて長生きしたって、いいじゃないですか。
それでも人間は生きる意味があるんです。生きていく必要があるんですよ。
それは神さまが生かしてくださってるからなんですよ。
自分の力で生きているなんて傲慢なこと考えてると、間違った方向に行ってしまいます。
テレビでいろんな人が、寝たきりにならずにぽっくり死にたいとか、寝たきりで長生きしたって意味が無いなんてことを、平気で言ってますが。
その言葉を聞くたびに、腹が立ってきます。
まあ、そういう人たちをも、神さまは赦されておられますけどね。
いろんなことを考えると自分の中でも矛盾があります。
人には厳しく自分に甘く、総論賛成各論反対、まあ、そんなことばかりです。
頭の中では、いろんな感情がうずまいています。
その時々で気持ちも考えも180度変化しています。
まあ、人間ですから、それも当然かもしれません。感情の動物ですから。
人間感情が先で、理屈は後でひっつけるものです。
私は今が一番幸せです。
この先のことは考えられません。いや、考えていますが、考えたくない気持ちもあります。
考えるとドツボにはまることもあります。
考えても、どうにもならない方向へ進んでいくこともあります。
この先のことは、不安でたまらないですが、自分でできることはやって、あとは神さまに委ねるしかないことです。
風に乗って舞う鳥の羽のように(フォレストガンプという映画に出てくる映像です)、神さまに持ち運ばれて行く人生を送ろうと考えています。
そのときどきで、不安や不満や憤りや悲しみや苦しみ、いろんな事にでくわすわけですが、すべてを益にしてくださる神様にゆだねて生きることができますように。
最後は、お祈りになってしまいましたm(_ _)m
いろんな考えは、結局は、最後は祈りになるのかもしれないですね。